時間の感覚差異はどこまで合意されている?

最近の中国との衝突でも色々な歴史観がでてきていますが、ドイツとユダヤの記憶のあり方など、このテーマについて大いなる議論が繰り返しなされています。もちろん、より悲劇を背負った側がある一時期を切り取って長く記憶におき、そこまでの悲劇を伴わなかった側は比較的忘却症に陥りやすいということがあります。よくエピソードにでる朝鮮半島における秀吉に対する思い方、あるいは南太平洋における日本軍の争いに関する思い出。これは歴史教育だけでなく、ある一定の時間への感覚の異なりによるのではないかと考えることがあります。

太平洋のある地域においての50年は日本での1年であったりする。これは全く不思議なことではなく、子供にとっての1年は大人にとっての2-3年にも相当したりすることを思い起こせば、なるほどと思うはずです。子供には「このあいだ・・・」は2-3日前であり、大人にとって数ヶ月前ということもあります。また以前、イタリア人はなぜ遅刻するかでも書いたように、5分や10分の捉え方も違います。ある人にとって「ちょっと待ってね」は2-3分であり、ある人にとっては30分であるわけです。ある会社では「近いうちに実施に移しましょう」は2-3ヶ月を指し、ある会社にとっては1-2年であったりもします。これだけ時間への感覚が違うということが明らかなわりに、この差異が政治や経済活動でどれだけ事前確認がとれているのだろう・・・というのがぼくの疑問です。

物理的距離の違いについては、エドガー・T・ホールを引用して日経ビジネスオンラインの今週のコラムにも以下書きましたが、ホールは時間についても言及しています。

そのホール氏は、「違った言語には違った感覚の世界がある」とも書いている。違った感覚とは、人と人が面と向かって話す時に不快に思わない距離感も指す。30cmを親密性の象徴として喜ぶ人と、同じ距離を煩く思う人がいる。

個人差もあるが、およそ国や民族によって、その感じ方の傾向がある。アングロサクソン系よりラテン系のほうが距離を縮めたがる、とか。そうすると、身を寄せてきたラテン系に、アングロサクソン系はじりじりと後ずさりする。

これと同じようなことが時間にある。当然、6-70年前の事実への感覚が違う。したがって「まだ、そんなこと言ってるのかよ。うんざりだ!」と悪態をつくか、「なんで、あいつらはまだ十分に過去になっていないのに、知らんぷりをするんだ!」と怒鳴るかの間に、時間意識の差という要因があってもちっともおかしくないのです。だから話し合っても無駄というのではなく、このギャップを認識したうえで話し合わないといけません。

男女間にもあることで、男性の方は女性と喧嘩した時に、絵巻物のように過去の非が昨日のごとく目の前に繰り広げられて唖然としたことがあるはずです。それを「女性はああいう考え方をするものだから、そのまま受けるしかない」とか「男は忘れっぽいけど、まあ、それがいいのよ」と解釈して片付けるのが普通です。こういう身の施し方が、例えば異文化のビジネスでどれほどに使われているかというと、案外、井戸端会議の話題枠を出ていないことが多いのではないか・・・ということがとても気になるのです。

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Category 『ヨーロッパの目 日本の目』, ローカリゼーションマップ | Author 安西 洋之