ズッキーネの天ぷらを進化とみるか?

ネットサーフしていたら、日本の方が「ローマで中華料理屋に入ったら中華とは思えぬ料理がでてきて呆然した」と書いた記事をみつけました。今まで似たような文章や感想をこの20年間見聞してきたぼくは「またかよ・・・」とややうんざり。でもこれに対するぼくの意見は何度でも書き続けないといけないとの想いもムクムクと出てきます。

まず、ローマに旅して中華料理を求める場合にそんなパーフェクトを求めるものか?というのが第一点。多分、この方なりの「中華料理」の基準があり、不幸にもそのレベルに達していなかったのでしょうが、日本の山奥に一軒しかないバス停の前にある何でもありの飲食店で出てきた美味くないラーメンを、「これをラーメンとは呼べない!」と批評するのとは少々意味合いが違っています。「これはラーメンではない」というのは極めて個人的義憤に近い、あるいは逆に表現上のあやともいえます。しかし、冒頭の人は、どうも個人的レベルではなく文化的問題として怒っている様子である・・・つまり、文化伝達が正しくない、と。

この方が中国本土や香港あるいは台湾の中華料理を指しているのか、日本における中華料理を指しているのか分かりませんが、世界5大陸に数多ある中華料理をもって中華の定義づけをしているのではなさそうです。およそ日本と日本に近い場所の中華料理をメンタルモデルとして、そこからの差異に許容度が低かったといえますが、ローマでの中華料理も中国系ーイタリア国籍がどうかは別にしてーが作っていたであろうことを想像すると、それを日本人に「君のは中華じゃないよ」と言われても店の人は「この人、何言っているの?中華の何を知っているの?」とキョトンとするだけでしょう。和食もそうですが、国名を前にした〇〇料理の定義は素材や調味料あるいは調理法のどこかに伝統に通じるものがあれば、〇〇料理と称する。これ以上の定義は存在しないとするのが、料理のそもそもの成り立ちではないかというのが二点目になります。つまり、イタリア料理が大航海時代以降にトマトを使い始めた、ポルトガルに祖先をもつ天ぷらを事例に持ち出すまでもなく、料理とは異文化交流の賜物であると考えるのが普通であるということです。

日本の飲食店で家庭で「こんなの和食じゃない!」と叫んだことありますか? 「なんだ、このまずいの」と言っても、和食の定義に合わないという考え方はしないはずです。懐石スタイルのフランスのヌーヴェルキュジーヌを東京で食べるとき、「これは和食じゃない」と評するのではなく、「和食の世界が広がっていいね」と感嘆することが多いでしょう。東京の本格的イタリア料理屋で和風だしのスパゲッティに海苔がのっていると、イタリアらしくないと思うのではなく、和風パスタ専門店のようだなと想起するだけでしょう。しかし、それを通常イタリアに住むイタリア人が東京で食べれば、「これはイタリア料理ではない」と言ってあまり見向きもしないでしょう。ご飯や肉に醤油をかけて美味しいというイタリア人であってさえ、醤油味スパゲッティには関心が低くなる可能性が高いのです。一方、フリットと似た天ぷらには、その洗練さに感嘆をする。以上を三つ目として挙げるのは、料理の異文化交流への評価は極めて主観性が強く、同じものであっても、評価する当人の価値体系のありかによって大きく変わる点です。それも習慣の変化によって変貌する。ミラノの和食屋で20年前に食べたズッキーネの天ぷらはかぼちゃの代替であると思ったとき寂しさを覚え、東京にズッキーネが普及した現在、同じものを「天ぷらの進化」として喜ばしく思ったりするのです。

意図的な異文化交流は先進的にみられ、意図的ではない異文化交流は無知としてしかみられない。しかも、本人の意図など食べる人間はそこまで知らない。とすると、意図的か否の判断は、その店のデザインやサービスあるいはムードなど料理以外の要素で判断することになります。これらによって、価値体系をサービス側から可視化するわけです。「それは料理の本質ではない」という声も聴こえてきそうです。が、料理とは異文化交流の結果であることを常識とするのは、1) だしのうまみは世界共通で評価されやすいと言われること 2)かなり多くの味は食べなれることによって美味しいと思えるようになる という二つの要因によって成立しているからであると思われます。ビールを子供の時に飲んで苦いと思い、大人になってこんなに美味い飲み物はないと思うのは、飲み慣れた結果であるといえます。

そして寿司がダイエットをキーワードに世界中に流行しているのは、食べなれるのは、食べ続けるための動機を維持したからと言えます。最初に生魚の匂いにヘキエキとしてもー特に日本の外で寿司を食べる場合ー、寿司を食べるのは健康に良いと合理的概念を頭で理解したがゆえに継続性を保てます。あるいは、これを食べることで流行のなかにいると認知されると思う、これを食べることで大人の世界に入れるーうにの寿司をカウンターで大将に注文するのはかっこいいことだと若者が認識するー、という価値体系との組み込みへの希求が動機を生むこともあります。もちろん、食べなれたことがなくても、だしのうまみでなくても、「これは美味い!」と初体験で遭遇することもあります。しかしながら、異文化の〇〇料理といわれるものが、こうした初体験で評価されることは確率として低く、自分の知っている料理の近似値かどうかが確率アップの理由となることが多いと考えるのが妥当でしょう。

こうしてみてくると、異文化料理の普及ー日本での外国料理や海外での日本料理ーにあたって必要なことは、ユニバーサルな課題をどう解決するかであることが分かってきます。それぞれにおいて素材の選択から調理法まで技術的なレベルでの意思決定は千差万別でしょうが、テーマはコンテクストのセッティングである点において何ら変わらないといって過言ではないと思えます。「これは日本文化のエッセンスだから、そのまま外国人にも分かってもらいたいんだ」という気力や情熱だけでは殆どものにならず、コンテクストのレイヤーとディテールそれぞれへの丹念な読み替え作業ー時代の流行がこれを楽にしてくれることはありますがーの成果こそがほぼ唯一の道ではないかと考えます。そしてローカリゼーションマッププロジェクトで書いているように、この読み替え作業の領域とスピードは、狙う市場の規模と成熟度によりますから、あえて「読み替えない」という選択肢もタイミングによっては選択の一つであることは頭に入れておくべきです。

<関連エントリー:以下以降のFOODEXの関連記事>

http://milano.metrocs.jp/archives/2978

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Category イタリア料理と文化 | Author 安西 洋之