ミラノサローネ2010(27) 静かなニッポン人 (4月23日)

3月初め、東工大の世界文明センター主催のシンポジウム「クール・ジャパノロジーの可能性」2日目、「日本的未成熟をめぐって」で、映画監督・黒沢清は自分の作品について海外でどう批評されるかを語っていました。それに関し、ぼくは以下のように書きました

黒沢清が自分の映像を「スタイリッシュで静か」と受け止められることを発言の基点においていましたが、学生相手にベーシックな話をしたとすればそれはそれ でよいのですが、いずれにせよ、そうした「見られ方」をすること、あるいは自分自身でももう一つの視点にたつと「そう見えること」を当たり前の認識をもつ ことは基礎的な素養でしょう。

ここでぼくが言いたかったことは、黒沢清の映像が「スタイリッシュ」「静か」と評されることを、まだあまり経験のない学生たちに「ぼくの作品はこう見られるんだよ」と教えているのなら結構。しかし、ビジネスをしている人達が、こういう話で感心していてはいけないということです。こう見られることを常識として知っていなければいけないのです。

今年、ファブリカ・デル・ヴァポーレではジョヴァンニ・レヴァンティ(Giovanni Levanti)の作品展を開催していました。昨年のパオロ・ウリアンに引き続き、巨匠と呼ばれる年齢ではないが20年以上の実績をもつデザイナーの作品を陳列しています。

「そういえば、こういう作品を10年近く前にサローネで見ていたな」と思い出します。Campeggiがマジストレッティの作品で印象に残るスタンドを作っていた頃、このレヴァンティは同じ時期か、それより少し後に上のような作品を発表していたのでした。「リラックスできる空間」が90年代後半頃からスポットを浴び、若い層に寿司やマッサージあるいは温泉が普及しはじめたのは、この時期だったのではないかと頭の中の記憶を探ります。PCを膝の上にのせてネットを使うほどにはまだ無線が定着していなかったけれど、ケータイでだべることは可能になっていた・・・・そうか、リラックスとITは同時進行で普及している。いずれにせよ、リラックスには静けさを伴うことも多いですが、遊びのある高揚感は必ずしも静けさとは両立しません。

どこかに動きを感じる作品の数々を眺めます。今回、日本のデザイナーの作品に接しながら、「どうして、こうも静かなんだろう」とその理由を考えました。今週、ライターの方と話していたときに言われたのは「日本人は人とぶつかることを避けますからね」ということでした。そこで、説得的であることは平和を目指す態度ではない、暴力的要素を含むという認識を正すことが必要なのではないかということを話したと月曜日に書いたのです。同時に、トリエンナーレのボビザでみた作品の数々は完成度は低くても、説得的であることを厭わない風に見えるとも記しました。つまり、日本人の作品が静かであるのは説得を避ける態度に理由を見つけられるのではないか、とも考えたわけです。

やはり今週、日本の広告業の方とこの話をしました。彼は「平和であるには、相手がどの点がOKでどの点がNGかを相互認識する必要があり、納得という状態が重要だ。それには対話が大切」と語ります。ぼくは、「あることに納得するのは、その全体像なり価値体系が分かるから。ある人の性格が分かることによって、その人の行為をエゴとは思わなかったりする。したがって、その全体を知るために対話が大事なんだと思う」と話します。対話がキーであることはお互い一致しています。こうして考えてみると、日本人の作品が静かなのは、対話(あるいはコミュニケーション)を求める態度(意思)の弱さの反映なのだろうか・・・ということになります。

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Category ミラノサローネ2010 | Author 安西 洋之