山田登世子『ブランドの条件』を読む

ここで何度も書いているように、ブランドの定義をあるカテゴリーや状況で条件づけるのは無理があり、「ブランドとは考えの痕跡の集積である」というのが今現在の妥当な定義であると考えています。エルメスが希少性を売りにしている、あるいは近代誕生のブランドは王侯貴族を顧客にもつことで成立したという事実をもって説明できるのは、ブランドのある一面です。伝説や神話の積み重ねがブランドの必要十分条件にはなりえていない。しかし、だからといって、ブランドがどう考えられてきたかを知らないよりは知っていたほうがよい。その文脈で、本書を読むと役に立つでしょう。

ルイ・ヴィトンの起源は、いわば優秀な荷造り専門業者であった。そういうスタート地点がいいわけで、ある貴族が別の貴族の荷造りをしてあげたら評価を受けて、というストーリーではない。が、それだからといって、ブランドとなすのは、下からの這い上がりでないといけないということでもありません。先に書いたように、結果としての信用獲得プロセスを条件付けるものは何もないと言ってよいと思います。ただ、通常、ブランドとはラグジュアリーブランドからブランドと言われてきたことで、往々にして上下関係がついてまわったということでしょう。

エルメスやヴィトンにはデザインだけに還元されない「無形」の象徴的価値がある。それは、アメリカには決してありえないもの、すなわち王侯貴族を相手にして栄えてきた百年の「伝説」である。エルメスでオーダーメイドのバッグを買うわたしたちは、この伝説を手に入れる贅沢のための対価を払っているのである。

これの文章こそが、従来のブランドのあり方としてよく耳にしてきた説明でしょう。これをもう少し紐解くと、ちょっと様相が違ってきます。たとえば、1852年にオープンしたパリの本格的デパートであるボン・マルシェ(ここで、ぼくの商売の宣伝を入れると、デルポンテ社のエキストラ・ヴァージンオイルもこのデパートで売ってくれています。これもブランドつくりの努力!)。このデパートの画期的なところは、それまでなかった「定価販売」を導入したことです。駆け引きの解消です。このデパートがはじめたのは、それだけではない。「出入り自由」という原則です。店内に入るには購入の決意をし、価格交渉に臨んでいた人たちが、自由にフラリと店内に入り、何も買わなくてもよくなったのです。

これは、買う気もないのについ入ってみたくなるような巧みなショーウィンドウ・ディスプレイの演出とともに始まった。中産階級の人々にとってまさしくそれは一つのドリーム・ワールドの出現にもひとしかった。「衝動買い」というショッピング形態はまさにボンマルシェが誕生させたものである。

この期にデパート産業がスタートするのですが、主力製品は衣類であり、新品。これまで中古を買っていた新興ブルジョワジーが高級仕立てのコピー版への欲望が芽生え、既製服市場が活性化していったのです(p97)。ぼくが面白いなと思うのは、「衝動買い」と「既製服」の関係です。「既製服」があり「衝動買い」が成立する。王侯貴族が衝動的に仕立てを命じることはあったかもしれないけれど、できたモノをその場でハッと思って買うわけではなかったのです。

ブランドのプレスティージュは貴族の時代の終焉をもってしか始まらないのである。言葉をかえれば、ブランドの時代はデモクラシーと手を携えてやってくるということだ。

シャネルやフォードが生むマスマーケットの時代が、20世紀から本格化するのですが、キーワードに「衝動買い」があるともいえます。浮動票は「衝動」によって集約されていく。その筋道がある「考え方の痕跡の集積」によって示されていく。そう仮説をたてたとき、現在進行中の書籍の解体、つまり章分けされたより分断化された情報ーWikipediaなどー、ネットに流れる断片的な印象ーTwitterなどーは、どんな「筋道」と「衝動」によって一度は拡散して分散したとみられるエレメントが如何に集約されていくのか、より考えざるをえないことになっています。オバマの大統領選挙運動におけるメディアの使い方が象徴的です。

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Category 本を読む | Author 安西 洋之