内田樹『日本辺境論』を読む

日本人は日本論や日本人論あるいは日本文化論が好きだとよく言います。しかし、ぼくが見る限り、多かれ少なかれ、どこの国の人もそれなりに自己分析は嫌いではないとの印象をもっています。なにせ自分のことを語るにはネタが尽きることがありません。「日本人は日本人論が好き」であることを否定的に捉えるのは、往々にして「・・・で、それでどうなの?」という反応と対である場合が多いのではないかと思います。「わかったよ、日本人って、そういう性質なんだね。じゃあ、今のこの前の問題にどう立ち向かうのかを示唆してくれるの?!」という焦燥感がつきまといます。もちろん、実際、それに回答はでないことが殆どです。しかし、その認識、つまり日本ってこうなんだ、と散々言い尽くされたことが何であるかを常に見直しておくことは重要である。ゆえに、それを日本の「辺境性」に焦点をあてて大雑把にまとめた。それが本書です。大雑把を括弧で括ったのは、著者が大雑把に立ち向かったと書いているからです。

本書は体系的ではないし、対象とする事象はさまざまに移ります。それはぼくにとって全然問題ない。事例は過去の他人が出したものを再利用するのではなく、できるだけ独自のものがよく、しかし、そこから得る認識は過去の知れた事例と同じであることを示すほうがいい。そして日常的な世界に近ければ近いほどよい。歴史的な薀蓄や一部の人にしか分からない高度なエピソードをもってこられても、それが妥当であるかどうかの判断は容易ではありません。できるだけ多くの人が妥当性を問える事例であればあるほど良いでしょう。それによって、主観の共有の度合いが高くなります。こういった内容は、正しい認識などなく、いわんや数値で導き出されるものでもありません。主観でしかないのです。が、主観であることを下にみるべきではなく、主観で我々は生きている事実を積極的な価値としてみないといけません。そういう意味で、日本を巡るあらゆる状況を、日本人の主観の傾向として描いた本書は、つまらないとは思われない工夫が施されています。

そして、一見、何かに頑張れとも言っていない。こうあるべき姿に向えとも語りません。徹底して変化のできない日本(人)の肯定や否定ではなく、「こうなんだ!」と繰り返し繰り返し、あの手この手で描写していくのです。それは見事です。こういう記述をヨーロッパの日常文化について書き連ねいくと、ぼくのヨーロッパ語りに絶好だ。そうぼくは、この本を読みました。文化理解をビジネスーそれも人事や国際戦略設定というレベルでない、もっとモノに近いレベルーにどう繋げるかを多くの人に分かってもらいたいと悪戦苦闘しているぼくにとって、この本はエピソードやロジックの説明の提示においてヒントになりました。だからこそ、筆者の内田氏が全然狙っているとは思われないパートへの突込みが、ぼくの進むべき道だと見えてくるのです。

すなわち、日本がGDP2位であるためとか、それが10位でもいいではないかという議論があったとしても、本書の内容を現状肯定としか読まなかった場合、それは本書の目標に沿わないのではないかと思います。「掃除」ー日本論の整理整頓ーにいちいち大げさな目標は不要ですが、本書の読み方は掃除をしたうえで他者と相対する場合に応用して意味があるのです。その応用の仕方は書いていません。自分で読者が、この本を使って発展させることに意義があります。あえて言えば、このような現状解釈の本がたくさんある一方、意志的に変革してあることを目指ざす本にこうした内容が欠如していることが、極めて日本的現象であるとは言えるでしょう。

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Category 本を読む | Author 安西 洋之