問題の周囲に立てても、核心には踏み込めない

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ぼくが好きな海の景色はいろいろあります。砂浜から眺める海や小船から喫水線に顔を近づけてみえるチカチカと光る海面。どれも良いですが、丘の坂を登るきる寸前に向こうに見えてくる海も好きです。「救われる」という言葉が自然にでてくる・・・。海もさまざまなアングルや距離から眺めることにより、まったく違った表情があることがあることを知り、それぞれを異なった感覚で楽しみことができます。

さて昨日、都内のある大学のデザイン系学科の卒業展覧会をみてきました。まず第一印象は完成度が高いなあということでした。ミラノでみる学生の作品より、ずっとカタチになっている。パネルでもきちんと説明がされています。作品テーマはそれなりに散らばっていますが、医療や子供を対象としたデザインが多いことが印象の二番目です。「これは、卒展のテーマを事前に決めたのかな?」と思い、受付の学生に聞いてみると「いや、そんなことはありません。自由です」という答え。自由でありながら、デザインの向かう先が、いわば弱者周辺に目が向いていることにやや気になりました。

ぼくは、パネルの説明を読まないと作品を理解したことにはならないと考えているので、それなりにしっかりと読み込みます。このパネルの解説を読む限りにおいて、テーマの対象となる主人公ー担架で運ばれる病人であったり、小さな子供であったりーがどう思うかよりも、それらに対面する人たちー救急署員や親ーからの視点が重視されていることに、少々違和感を覚えました。たとえば、電車のなかで子供たちは煩い。他の乗客は迷惑に思う。それを感じる親たちは肩身の狭い思いをする。だから、子供づれは別車両に分けて、気ままになれる空間を用意する。こういう発想プロセスになっています。弱者の周囲をテーマにしながら、弱者の目線に立とうとした軌跡がパネルにはないのです。

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子供は親のものではなく、社会のものという考え方から距離があります。ぼくが知りたいのは、上記のような電車内での問題を、どのようにコミュニケーションの次元で解決していくのかについて、どこかのプロセスでどれだけ検討したのか?ということでした。パネルは展示されている枚数より多く書かれたものを絞ったようですが、このテーマの問題点を「他の一般乗客」「親」の二点からしか記載していないところをみると、プロセスのどこかで子供の立場を考えた痕跡はないと言ってよいでしょう。

ぼくは学生にすべての視点を求めているわけではありません。およそ、学生だけでなく一般企業においても、そのような視点が常にカバーされているとは言いがたいのが社会の実態です。したがって、ここでの問題は、自分も含め社会全体は問題の周囲に立つことはできても、問題の核心に踏み込むのは容易ではなく、その周囲には目に見えないバリアが数多ある事例のひとつであることを語っているのです。また、これは、日本企業のヨーロッパ市場への踏むこみの甘さと相似でもあります。

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Category その他 | Author 安西 洋之