失われた「地中海料理」
Date:10/2/4

ぼくは日本でも、たまにイタリア料理のレストランに行きます。まず、体や舌が欲するのです。よく「日本でイタリア料理を食べなくてもいいでしょう」と人に言われるのですが、比較的薄味で軽い和食が続くと、ある程度の重さが欲しくなります。それもフランス料理ではなくイタリア料理で。もうひとつの理由は、日本のなかでイタリア料理や文化がどれだけ浸透し、どれだけ誤解され、でもどれだけ時間をかけて修正されていくかのを定点観測するためです。これはマーケットリサーチ上、フォローしておくべきではないかと思い、イタリアレストランに足を運びます。
それに比べると、イタリアンのワインバーはあまり行きません。たまに出かけますが、バーはシングルモルトを目指すことが多いです。というのも、ワインだけを飲むことはぼくの習慣としてあまりなく、あえていえば昼間、日光を浴びながら冷やしたーアイスを入れることもありますー白ワインを飲むか、夕方に食前酒として飲むというパターンです。基本的にワインは食事と一緒です。美味しいパルミジャーノをナイフで切りながら重い赤を飲むこともありますが、それは美味しいチーズがあるときで、その逆ではないのです。
今週、神宮前にあるワインバーAZに出かけ、「そうか、こういう場所があったのか」と思いました。カウンターと数少ないテーブルで10人前後の空間は温かみがあり、イタリアが好きなオーナーの平野さんと雑談をしていると、先日、横浜元町で抱いたような不足感の充満とは無縁な異文化の受容表現があるなと思ったのです。いや、多分、数十年前の元町も同じだったのかもしれませんが、あの時代は地中海料理という表現が一般的であったように、やや雑駁な文化受容だったと思います。それにたいして、現在はディテールで嘘がないことを示していく必要がある時代なのだと感じます。
もちろん文脈はそのまま伝播できず、ディテールの数々は違った位置づけをされていくのですが、それでもディテールの重みがリアリティを提示し、そのディテールがより検証可能な今は、数十年前とは違った店になっていくのが当然です。しかも、そのディテールは必ずしもすべての視点からみた客観的真実であるよりーそういうこととは、昔でもありえなかったのですがー、君自身の視点で「これ!」と言えれば良いという価値観に我々は生きているという自覚がより強くなっています。だからこそ、「地中海料理」という逃げが通用しなくなったとも言えそうです。






