ミラノサローネ 2010(13) ブログを実名で書く
Date:10/1/27
ブログを実名で書くかどうかはよく議論されるところです。日本語環境では仮名が多いことはよく知られたところですが、FACEBOOKやTwitterのように多言語が並列する環境になってくると、日本語環境と多言語のそれとの差異がブログ以上に明確に見えてきます。名前だけでなく、自分の顔を表に出すかどうかでも差があります。日本語環境では実名ではなく、自分の顔以外のアイコンを多用する傾向にあるのは、別に正確なデータを用いずともおよその印象で把握できるでしょう。
実名を隠す理由や動機はさまざまにあり、組織の一員の場合は就労規則や秘密保持上の問題が絡んでくることもあるのでー新聞社では社の名刺で得た情報の一切を個人発信することを禁じているところもありますー、ブログやTwitterは実名であるべきと一律に言うことは避けた方がいいでしょう。仮名でしか発信できない情報があり、そこに何らかの真実が含まれているならば、そこにある程度の価値を認めるのが妥当です。もちろん、絶対的な情報量と確率の問題から、仮名での情報に振り回されるのに嫌気がさして、実名情報を好むことがあってもいたし方がなく、その態度を責める理由はあまりありません。砂漠に一粒の玉石を見つける努力する価値があるかどうかは、個々のケースによります。

しかしながら、文化圏によりネット上に実名や顔を出すかどうかに傾向の差がでており、日ごろ仮名に慣れている人間が実名の世界に出ていけば露出の仕方に戸惑い、日ごろ実名に慣れている人間が仮名の世界に出ていけば露出への反発に戸惑うのは必至です。このギャップを乗り越えるのは、思いのほか大変です。オブラートに包んだ日本的表現で言葉は少なめなのが良しと教育されてきた人間が、オブラートをなるべく外し言葉をやや大目にしないといけない世界に入り込むとき、それは言葉の問題だけでなく、実名で自分の顔を出すことがどういうことかを実感として知っているかどうかが鍵になってきます。
我田引水的ですが、「ぼく自身の歴史を話します」を引用します。
文化センターに首を突っ込みはじめた次の年、つまり91年のいつ頃かスーパーカーのプロジェクトにも足を踏み入れることになりました。ジュージャロのデザインした車です。ダブルキャノピーのこの車を1億円という価格に設定したのはバブル経済の賜物でした。F1パイロットの中島悟が乗った宣伝などで記憶にある人も多いと思いますが、とにかくヨチヨチ歩きのぼくも、この車の仕上がりをチェックすることになりました。
宮川氏から車をみてくれと言われたとき、ちょっと逃げ腰になりました。いくら欧州メーカーのスポーツカープロジェクトに関わったことがあっても、ぼくはビジネス畑です。それも、組織のなかの一パーツです。「それは品質検査あるいは実験・評価の人たちプロの仕事だろう」と瞬時に思いました。そんなぼくが見ても・・・と正直迷いました。自動車メーカにいたからなお更そう反応したのでしょう。
もちろん、この車を作っているカロッツェリアの品質管理の人間も見るし、ちゃんとテストドライバーも走ります。しかし、ユーザーの目で見ることも大事なんだ、と。ぼくは1億円の車なぞ買えるユーザーではないですが、「君の目と触覚で判断することも大切なんだ。自分自身の目で見る、それがいいんだ」と言われたのです。
1億円の価値がどこにあるかを考えながら、一台一台出来上がった車をみました。誰の目でもない、まさしくこのぼく自身の目で直接みる意義あるいは大切さを知ったのは、こういう経緯を契機としていたのではと今にして思います。それまでのぼくは「職務分担された自分」ではなかったか・・・と考えるのです。
ここで書いた「職務分担された自分」とは、いわば仮名の自分あるいは自分の顔を隠すのに慣れていた自分のことではなかったのか、と思います。一人の自分は自分自身では分からず、常に他人がみた自分の総合像でしかありえません。実名であってさえそうなのです。仮名に慣れていれば、その像はもっと不明瞭になります。
ミラノサローネに出展することは、実名の自分を見つめ直す契機にもなると考えると良いかもしれません。それは、もしかしたら、果敢にゴールを狙うストライカーの心性に近づくことかもしれないのです。







