ミラノサローネ 2010(11) 雑種的文化の弱点と克服法

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ミラノサローネで日本から出展している作品を見ていて、思うことがあります。それは見方によっては迷いに見えることです。多分、出品している本人は迷っているとは意識していないでしょう。ぼくが感じるのは、作品が誰を対象としているのかが、分かりにくいのです。日本市場へのPRであっても、ヨーロッパ人に賞賛されたという物言いが日本でできるアリバイを作っておきたい、というレベルの話ではありません。「もちろんイタリアで評価されたいけど、スカンジナビアでもいい話があればいいね。でも日本の人にも褒めて欲しい」という気持ちがどうも透けて見えるような気がするのです。肯定的な見方をすればグローバル市場を目指していると言えますが、否定的な見方をすれば対象マーケットを絞りきれていないと評することになります。

更に言えば、グローバルに通じる文化的共通性への配慮不足というより、もともと文化差に対する感度があまり高くないと想像できます。日本が多数の他国の文化を採用する「文化的雑種性」を強みとしてきたのは確かですが、これは逆に、広い荒野をぼんやりと眺める癖がつきすぎているのではあるまいかと思うのです。「非雑種性」ー加藤周一はフランスや英国の文化を「純粋」と定義し、ドイツやロシアのそれをと区別しましたが、ここではヨーロッパ一般に対して「非雑種性」という表現をとりますーの国のデザイナーたちは、そこそこの広さの公園のベンチで見られる風景をベースとしているように見えるのです。意図的に公園にいるのではなく、そもそもが公園にいる人たちであり、荒野に佇むなど考えたこともないかもしれない、そういうニュアンスです。そういう意味では、日本も荒野に佇むのは明らかに結果としてそうなっていると表現すべきかもしれません。

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公園の人たちは、公園の外についてはあまり知識をもっていませんが、それなりに公園の事情を良く知っています。必然的に何かを考える時には、公園で日常会う人たちの顔を前提にします。たまに外の世界を思い描くこともありますが、およその場合、作品の名前ー特に女性の名前!ーと暗喩的レベルまでであって、それ以上にはいきません。それと比較すると、荒野の人たちは輪郭がぼけてしまうのです。具体的にいえば、ミラノのデザイナーはスイス、ドイツ、フランスあたりの国との文化差は日常レベルーバカンスでの旅であってもーで勘がついており、意図せずとも、それを踏まえアイデアを練ろうとします。異文化の日常性です。しかし日本の多くのデザイナーにとっての異文化は非日常的であり、異文化に対して意図的であっても、「ぼんやり」の度合いが高くなります

とするならば、日本のデザイナーはターゲットとすべきマーケットをさらに限定的に考えるべきではないか、というのがぼくが思うところです。リチャード・サッパーの「自分にしかできないものをつくる」というスピリットを紹介したところで、ぼくは差別化のためのリサーチをほどほどにすると書きました。いわば公園の柵の向こうまで見ようとしなくていいのだ、もっと柵のなかでじっとベンチを暖めながら考えるべきではないかと、かなり率直に思っています。もちろん、この「ミラノサローネ 2010」の趣旨に沿った、「ヨーロッパ人をターゲットにする」という文脈での話です。

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Category ミラノサローネ2010 | Author 安西 洋之