あの人はぼくと違うと思うこと
Date:10/1/6
「海外で働くことをオプションとして考える」を書いてから、どうも頭にはりついてはなれないことがあります。今、いろいろな人達が抱える多くの焦りや諦念というのは、ネット社会のフラット化が生んだ幻想の結果なのかな・・・ということを思ったのです。
イチローが大リーグでプレーするのは別世界の人だから勇気をくれるようで応援する。自分と同じだったちょっと知っている人間がブログで、ある日突然にすごく人気者になる。あるいは逆に有名人とはずっとTVの向こうの側にて自分と関係ないと思っていたら、ブログやTwitterで距離感がなくなり、すごく近いところにいるような気になり、何となくその人と自分を比較してしまう。でも、英国のTVのオーディション番組で『夢やぶれて』を歌い、一気に世界中に名が知れたスーザン・ボイルには、「自分とあまり変わらないじゃない」とはさほど思わない。「やっぱり、あれだけ審査員を驚かしたのだから、才能があったんだろうな」と思う。
これが、フラット社会の距離感なのかなと考えるわけです。つまり運動や身体的なことに関わること、あるいは科学分野のノーベル賞レベルには相変わらずフラット感は訪れませんがー平和賞のほうがまだ近いかもしれない!-、それ以外の分野では、アルプスの山並みが丹沢山系くらいには低くなった印象をもっていると思います。ちょっとジムに通っておけば、特に問題なく登れるだろう・・・と。これは能力差の問題ではなく、ネットによる情報取得に関する既得権の崩壊という側面が大きいでしょう。非対称であった情報分布がかなり流動したのです。かつては新聞やTVでしか知ることができなかった情報を、普通の人がPCの前に座ってキーを叩けば、数分もかからないうちに獲得できます。だから逆に、ネットに触れていない人達が化石のごとく思えるのです。自分に丹沢と見えているものに、アルプスであると思っている人が前にいれば、その違和感は絶望感にも変わります。もちろん、両者、お互い様ではありますが・・・。

フラット感の普及の要因は、スピード性やWikipediaにみる情報の公開性もありますが、情報の内容と範囲の変化によるところも大きいでしょう。どういうことかといえば、かつては、あることを成し遂げた人のストーリーをTVで過去形として知り、その人が軌道に乗らずに苦しんでいる状況をリアルタイムで知ることは稀でした。自分の友人か知人のネットワークに入ってこなければ、こういうことは知りえなかったのです。そして一人の人間が「なんとなく繋がっている」人の数も、SNSやブログが普及した今から比較するとゼロの数が一つ少なかったでしょう。だいたい「なんとなく繋がっている人」の情報をリアルで知ることはめったになく、およそ友人の噂話程度だったのです。それが、今は、「なんとなく繋がっている人」達のリアル情報を追えます。有名人のことでも、ブログをRSSリーダーで毎日読んでいれば、「何となく繋がっている」一人と思うでしょうー新聞の連載コラムニストには、そう思わなくても。ネットはある意味、1対1のメディアですー。いずれにせよ、そういう観点でも、ゼロの桁が違うのです。
そこで、「君にもチャンスがある。これに挑戦しないのは、敗北だ。この戦国時代は、もう安定した会社の安定したポストなどありえない。頑張れ!自分で何かやるんだ!今の生活を変えろ!」と自己啓発本やブログが飛び交うと、どうなるでしょうか。運動会の徒競走のスタート地点に不意に連れて行かれたようなものです。自分ではそこに立つ気がなかったのに、周りに押されていつの間にか足が進んでしまった・・・・。それで、仕方ないからと走って1位になることもありますが、1位にならなかった多くの人達は、敗北感だけを募らせることになります。しかし、彼はそもそも、そこまで走るべきではなかったということがあります。留まって応援し、ゴールで走者にタオルをかけてやり、「頑張ったね。君のその姿を応援するのが、ぼくの役目」という人間もいるはずです。要するに、走って頑張るのが必ずしも全ての人にとっていいわけではないのです。

人にはそれぞれの不向き向きがあります。不向きなことにエネルギーを費やして敗北感をためこむのではなく、向きなことで勝利感を味わうことにもっと向き合うべきです。ぼく自身は、本で知ったイタリアで活躍する実業家に手紙を書き、そこから新しい人生が始まったのですが、皆が同じようなことをすればよいとは全く思ってい ません(お願いされてもイヤダよ、と言う人も多いでしょうしね)。たまたま、ぼくには「新しい価値観を作る現場に立ち会う」ことに自分を賭ける土壌としてのヨーロッパが 必要だったのです。中国でもアメリカでもニュージーランドでもなく、ヨーロッパしかなかったというわけです。特に一般的な意味での「海外で働く」ことに優先順位は高くありませんでした。
こと、人生を生きることについては、一般性はなく、すべからく個別的なものであると思います。どんなに社会が実際にフラットになったとしても、人の存在と人生そのものが、フラットになることはありえません。君は絶対、あいつとは違うのです。






