ミラノサローネ 2010(5)-ビエンナーレでの否定的反応
Date:09/12/27
これまでの4回で書いてきたことを、まとめておきます。まず、ぼくの書いていることは、ミラノサローネを日本へのPRのために使うのではなく、ヨーロッパの人へ訴求したい人を対象としています。例として、レクサスの戦略の誤りを指摘しましたが、これは分野やビジネスボリュームと関係していることで、プリウスや生活雑貨を別の種類の例としてあげています。この5回目は、少し違った実例をあげましょう。2008年のヴェネツィアビエンナーレ建築展での日本館、建築家・石上純也さんの作品です(申し訳ないけど、作品を実際に確認したい人は、検索エンジンで探してください)。

日本館の建物の周囲の庭にガラスケースに入った植栽が点在し、建物のなかの白い壁全面に鉛筆で詳細に描いたエコロジカルな街の姿があります。一見して膨大な仕事量であったことが分かります。そして入り口にコンセプトが記されていました。これをぼくは数名の仲間ー英国人、イタリア人、アイルランド人で、全員がデザイナーーと見ましたが、結論からいうと、彼ら4人のなかであえて肯定的な意見は一人だけでした。残り3人が否定的だったのです。
「あんなに沢山、鉛筆でスケッチ描いて、何のためなんだ?入り口でコンセプト読んで分かった以上のことが内部にないじゃないか。きっと何人ものスタッフが相当な時間をかけてやった仕事なんだろうけど、見れば見るほどに虚しい・・・・」「あのディテールに凝るのって、すごく日本的でいい。マンガの世界で見る表現をリアルに見たようだ。どうして、日本人って、あんなに細かいことするの?」「日本らしさがあるといえば、そうなんだけど、だからどうなの?っていう自問がどうしても避けられない」「この建築家は、自分の表現言語に拘りすぎている。この地では言語を変えるべきだ」

こういう様々な感想を聞きながらぼくが思ったのは、こういうことです。「これが日本の空間で表現されるなら、それはそれで良いだろう。イタリアという土地で表現するのであれば、二つ考えられる。誰か建築家のことを気に入った私的空間に提案するなら、それもいい。しかし、公的空間の場合は、違った表現が求められる。また、この作家は2005年、ミラノサローネでレクサスの展示を手がけている。また2008年のサローネで、キャノンのためにもやっている。そういうグローバルブランドとコラボレーションして、異なる表現をヨーロッパですべきということを意識しなかったのだろうか? まあ、レクサスとキャノンの二つとも、そういうことはなかったから、今回も変更なしということか・・・それに対しても、誰に語り掛けたかったのだろう・・・」

日本らしさというのは、何も和服を装うということだけでなく、石上純也さんの表現も十分に日本らしさとみられますー労働生産性の悪ささえ、日本らしさと見られる時代だ!ー。その異質感が歓迎される場合と拒否にあうケースがあるのですが、これは誰に向って訴求するか、前提条件によって変わるのです。上述のコメントにあった、「日本のリアリティに出会った感じ」と感激することと、「日本らしさは分かるけど、それでどうなの?」という醒めた目の間に何があるかを知ることが大事です。人はある作品を見るとき、その作品を生んできた価値体系を評価することが往々にありますが、その価値体系の痕跡を眼前にある作品に見出したとき、前者のような反応になります。一方、その価値体系を評価するけど、ある傾向が分かったので、新しい「例外」「突出」を見たい人にとっては後者の反応になります。およそヨーロッパの人は、ヴェネツィアビエンナーレという場を当たり前ですが公共空間と考えますから、表現言語のマッチングを期待するのは言うまでもないことです。
一方、大量生産の商品を売る場合でも、メーカー本社の所在地に属する価値体系が有効に働くケースもありますが、基本的には、それはプラスアルファと考えるべきです。ボルボの安全価値とスウェーデンの文化評価がプラスに働いていたことは確かですし、フェラーリやアルファロメオがイタリア文化イメージと密接であることも確かです。しかし、何よりもポイントは、その価値体系を効き所で有効に作用させるために、日本らしさとは何なのか?自分の扱う製品群と分野において威力を発する文化要素とは何なのか?を自覚的に把握することですー村上隆はここに力を入れたー。すなわち石上純也さんが、2005年のレクサスなどの経験を踏まえて、2008年のヴェネツィアで自分の表現をどう見られるかに自覚的であったかどうかが問われるわけです。自覚したうえであえて言語を変えなかったのか?ということです。何日も大勢で一生懸命に描いた鉛筆でのスケッチが、労働生産性の次元でーそれも低さのシンボルとしてー見られるのは、ビジネス戦略上失敗なのです。






