三島憲一『現代ドイツー統一後の知的軌跡』を読む
Date:09/12/14
21世紀は中国の時代とオフィシャルに言われだしたのは、この数年です。前々からーそれこそ2-30年ほど前からー言われていましたが、ほぼ疑いもないものとして語られはじめたのは、そう古い過去ではありません。それまでは政治状況の危うさが、その予想を常に疑心暗鬼にしてきましたが、政治体制が同じでもそれを乗り越える力を世界が認め始めたからで、象徴的には、世界のスーパースターである米国が、中国を尊重するようになってきたということが決定的です。そして、20世紀は米国の世紀だったが、これが続くのも数十年のことであろうと言われだしたのは、それと時期を同じくします。特にオバマが今年の4月、ロンドンで「もう米国をあてにしないで、自分たちでやってくれ」といわば白旗をあげた時から、世界地図は大きくはっきりと誰の目にもわかる形で変貌をはじめました。
多分、20世紀のはじめのヨーロッパからアメリカへの重心移動も、こんな感じだったのではないかと想像します。アメリカが脅威になると囁かれても、それを否定する声がもう一方に強くあり、しかし、第一世界大戦を経てさらに大きくなると思われても自らが設立に尽力した国際連盟を脱退する姿は、やはりアメリカにすべてを任せられないという感覚がヨーロッパに残ったのではないかと思われます。これぞ21世紀前半の中国への期待と不安の二重写しではないか、と。が、こういう100年を超えても、ヨーロッパはやはり米国の先の時代を生きているという認識があります。それは19世紀的なナショナリズムをナチ以降のドイツで解決し、かつEUでそれを超克し、暴力的な資本主義に抑制をかけることを福祉的な国のあり方で新しい道を示したという自負があります。福祉を施すことが耐えられないほどに経済のバランスが崩れた現在でも、「暴力的」であることを徹底して回避するすべを探しているのが、よくも悪くも、もう一つのヨーロッパの顔です。

日本の戦後の歩みがドイツのそれと近いのは、戦時の行為に対する反省を容易に取り下げることができない事情そのものからの脱出に苦しんでいることでしょうが、「日本という国は日本人のためにある」と「ドイツはドイツ人の国である」という主張の底にある民族主義的精神論の「活況」もあります。が、幸運にしてと言うべきか、ドイツの隣には国家の定義を全く異にする出生地主義のフランスという共和国があり、ヨーロッパというさらなる広域が国家の上に立つ権威と制度を作り始めたことで、ある呪いからの自然消滅的プロセスを歩み始めることができました。そして、こういう環境のもとで、アメリカ一辺倒の価値観に頼る必然性がなかったことも、幸運の一つでしょう。日本はアメリカをあまりに見すぎたため、裸眼で太陽をみつめたあとに陥るクラクラとした眩暈で、他の国をまともに見れなくなったことが不幸の原因になっています。超がつくブランドにしか身を預けることができず、自らの価値体系の構築自身を放棄した状態を作ってしまったのです。

で、再度ヨーロッパに目を戻します。ヨーロッパの一番の価値は何かといえば、人権であろうと思います。それが国家主権主義の強いドイツでさえ、尊重されるところにヨーロッパの特徴があると言っても良いでしょう。EUの加盟基準には死刑の廃止があり、そのために加盟を熱望するトルコがこれに従う処置を行っています。この人権がベルリンの壁の崩壊を推進させた一つの要因であることは、本書の以下にあります(p 9)。
それは日本ではそれほど重視されていないが、すでにだいぶ前から存在した東側と西側の対話フォーラム「欧州安全保障強力会議(CSCE)」とヘルシンキ議定書(1975年)の果たした役割である。「人権はもはや国家の内政事項ではない」というヘルシンキ議定書の文章で、国家を越えた人権の絶対的重要性が国際法的に認められたことによって、東側は、戦車による弾圧が決行しにくくなった。この一項は、統一ドイツの強制労働者への戦後補償や、最終章で述べるアメリカの戦争を考える際にも重要である。
と、ここまで書いたところで、アゴラで以下の文章をみつけました。
一般的に言って、欧米人は物事を玉虫色に見る事を好まず、敵か味方かをはっきりさせたがる傾向があります。そして、一旦決め付けると、それが「確固たる思い」となって、相当長い間、心の中にとどまります。
人権についても、見方は沢山あります。ヨーロッパ中心主義の嘘もあるし、先日のスイスのイスラム教寺院の尖塔建設に関する国民投票にもみるように、普遍的といわれる価値のー多分、心理的側面も強いー幅も明らかになっています。この場合、信仰や表現の自由に関わることだが。だからヨーロッパ的普遍ではない、更なる高次元の普遍への道が探られていくべきですが、いずれにせよ、その先のありかに近いー手が届きやすいーのはヨーロッパであることも事実です。玉虫色を好まないどころか、玉虫色に見えない玉虫色ー判断基準をひっくりかえすことで、まったく別のもののように見せるーの表現を得意とするのが、ヨーロッパであろうと思います。特に、エドガー・ホールのいうハイコンテクストカルチャーよりでは、その傾向が強いでしょう。南ヨーロッパのより柔らかい思想は何も南ヨーロッパだけにあるのではない、という理解が必要です。そして、それがドイツを抑制することになります。






