内藤正典『ヨーロッパとイスラーム 共生は可能か』を読む
Date:09/12/5
フランス文化を好きな英国人やドイツ人はいますが、しかし、その数は限定的です。ドイツ文化を好きなイタリア人もいますが、その数も同様です。EUに関心のあるヨーロッパ人は、ある一定の社会層以上であることが多く、「EUについてどう思う?」と聞いて「関心ないね」と答えるのは、他国と日常的に全く関係のない環境にいる人です。多くの国内法がEUの束縛を受けるとしても「あっ、そうなの。全くEU官僚が好き勝手をやって面倒ね・・・」と不満をいって終わります。2002年に流通をはじめたユーロという共通通貨はEU意識を高めることにも貢献してきたのは確かですが、それをもってヨーロッパ内の異文化理解が劇的に進んだという話にはなりません。が、エラスムスなどEUの交流プロジェクトが成果をー特に若い人たちにー出していることも事実です。ですから、そう悲観的に判断するのは早計でしょう。

一方、ヨーロッパ人のイスラム信者(ムスリム)移民に対する異文化理解は、様相をかなり異にします。EUに関心のない人たちも、直面せざるをえない側面が多くあります。労働市場でのパイの奪い合いの相手であり、子供の学校教育をどうするかを考える契機にもなります。子供の通学する学校で90%以上が外国人である場合、母国語教育への影響を考慮し、外国人の多くがムスリムのケースでは、(宗教教育が行われている地域においては)宗教教育がしかるべく実施されるかどうかを危惧します。しかも、ムスリム側にも同様の不安があります。内藤は、こう書きます(p 165)。
結果として、今までのところムスリム移民が暮らすヨーロッパ各国は、彼らの文化的・社会的に統合に失敗したといってよい。(中略) ドイツの場合は、もともと外国人に対する排斥感情があって、移民を追い詰めたために、ムスリム移民はコミュニティをつくって対抗した。オランダは自らのうちにイスラーム共同体の形成を促進するシステムをもっていた。そしてフランスは、同化圧力を強めると同時に彼らを無理やり宗教から引き離そうとしたために、その反動から共同体の絆が強まったのである。
一度、信徒の共同体が形成されると、次には、私的領域を超えて、公的領域においても、ムスリムとして生きる自由を権利として保障するようホスト社会に求めるのは当然の帰結であった。それに対する対処の方法を、いまのところヨーロッパ各国はもっていない。イスラームという宗教文明が可視化されていくことに苛立ち、各国がムスリムの行動を規制すると、ホスト社会とムスリム移民社会との緊張は確実に高まっていく。

緊張の高まりは、フランスやドイツでのスカーフ規制問題で多くの人が気づきましたが、11月29日のスイスでの国民投票ーイスラム教寺院の尖塔建設を禁止するかどうかーの結果が、57%が「禁止に賛成」であったのは、今までムスリムとのコンフリクトが目立たなかったスイスという国でもそうなのかという驚きと苦悩をみせました。さて、ドイツはナチへの反省から、「外国人憎悪」を定義づけたうえでこれを違法行為として扱うのですが、「ドイツ社会自身が、異民族や異文化と共生していく発想を自らのうちに持っていないことを表している。ドイツはドイツ人の国だという前提があって、そのうえで、外から来た人間を差別するのは良くないと言うのである」(p 44)と筆者は指摘します。
オランダは多文化主義を掲げ、一見、開放的です。が、これはムスリムへの理解が進んでいるということではなく、個人の自由の尊重をするから、他人の宗教に違和感をもったとしても関心や共感はもたない(目をつぶる)という方針の一表現です(p 102) 。フランスは宗教からの脱出の長い歴史を戦いの結果としてもってきた国です。よって世俗主義(ライシテ)により公の領域での宗教の中立が図られ、私的領域での自由意志が保障されます。そこで、学校にムスリムがスカーフをつけて通学することは禁止というロジックが出てきます。しかしながら、ムスリムは公私の領域を分断することは信仰上のロジックにあいません。キリスト教は宗教が支配してきた時代(中世)を経て宗教的支配からの脱皮を経験(啓蒙)してきたので、ヨーロッパ近代はムスリム的なロジックを「進化に反する古いもの」とみるのですが、ムスリムには宗教的規範の重視を時代によって変えることに納得するロジックがないのです。

今、世間で盛んに語られる、キリスト教とイスラム教の対立という構図を描き、宗教という人間の内面的活動のコンフリクトであることを強調するのは間違いではないか、と本書を読みながらぼくは思いました。もともと西洋社会とアラブ社会は近しい交流によって成り立ったのにもかかわらず、キリスト教から変遷した社会と、その社会に抑圧をうけた人間の視点がぶつかり合っているのが現代で、そこをリアルに見つめることに明日への鍵があると筆者は語るのです。二つの教義を比較し、こういう相違点があるから両者が交流するのは難しいと嘆くより、メンタリティや社会的差別の実態を知った上で、お互いが納得できるロジック探しにエネルギーを費やすことがいいのではないかと考えます。要するに、人との対立と融和はすべからく、納得できるロジックの確立という問題に帰結できるかという飽くなき試みこそが救いではないか、と。






