ぼくの書くブックレビュー

「本を読む」というカテゴリーを設け、ブックレビューを書き始めてから、およそ5ヶ月がたちました。最初に書いたのが、6月29日、宮台真司『日本の難点』です。30冊以上について書き、「安西洋之の36冊の本」を入れると、70冊以上です。それまでも、本やオンラインの記事に触れることがありましたが、一つのシリーズとして書こうと思ったのは、6月末です。その動機がなにであったかといえば、ヨーロッパや文化について人前で語り始め、何度も何度も同じ論点を多様なアングルから話す必要性を痛感したことも一つあります。自分自身のメモにしようと考えたこともあります。理由は、挙げれば沢山あります。が、ないと言えばない。

ぼくは自分の本『ヨーロッパの目 日本の目』を出版し、変わったことがあります。それまでは、本を読んで(言葉は悪いが)悪態をつくことが多かった。「なんで、こんな馬鹿なことを繰り返し書くのだ」「この著者、ピントがずれている」「本当に、こんなレベルの内容の本を沢山の人が読むのか」・・・・多くの人が口走ることを、ぼくも同じように口走っていました。ネットでレビューブログを読むと、そうしたくそみそにけなした文章を散見します。正直に白状すれば、ぼくは、今もそういう思いをもつことがあります。しかし、それを他人に大声で言うことは極力避けるようになっただけでなく、実際にそう思うことが減りました。

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昔、和田誠が自分にとってつまらない映画はないと話していました。当時、あえてよいところを探す態度も疲れるよな、とぼくは感じていました。偽善ではないが、自分には適わない。が、自分で本を書き、人の批評を聞き、メッセージを伝える難しさが身にしみて分かってくると、そう簡単に公に人の本を批判できなくなったのです。「それで、お前の本はどうなんだ?」と反論される怖さではなく、どこかの主張が尖がっていたり、当然記述すべき部分がばっさりとないのは、著者の編集上の意図であったりすることが想像できるようになったのです。

意図的に排除したことを、「ないのはミス、甘い」と指摘するのではなく、「こういう意図で排除したと思うが、それはこうして入れるべきだった」と言わないと、著者にとっては「そんなこと、百も承知」と受け取られる。もちろん、「こんなに言われるなら判断ミスだった」という展開もあります。しかし、ぼくが言いたいことはここではない。もともと筆者のために本を読むのではなく、自分のために読むーそれも趣味の読書ではなく、サバイバルの読書ーという基本的態度が決まってくると、その本の完成度よりも、自分にとってどこがどう貢献するか?という読み方になってきます。だから、読んだ本にどんなに沢山欠点があっても、それはぼくにはどうでもいいことで、ぼくの考えることにどこかプラスになる情報や見方があれば、それでよしとするのです。

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ぼくが読んだ本について書いていることが、「ブックレビュー」と通常世間で言われるスタンダードとどう同じでどう違うか、そこにあまり関心をもったことがありません。ぼくの書き方は、まず本が扱っているテーマに対する自分自身の経験や考え方の整理をなるべく行い、そこに対して、この本がどうインパクトを与えているかにおよそ集中します。本全体の意図をサマリーすることはないし、目次を書き連ねることはしない。それは、ぼくの読み方ではないからです。そういう書き方をするには、別の読み方が必要だろうけれど、それはぼくの目標とすることではないということです。ぼくが言えそうなことは、本のために生きるのではなく、人と生きるにあたって、本を頼りにすることがあるとすれば、こんな読み方があるよ・・・・というサジェスチョンからもしれません。

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Category このブログについて, 安西洋之の36冊の本, 本を読む | Author 安西 洋之