僕自身の歴史を話します(13)ーミラノでのスタート

日本の建材メーカーや建設会社のコンサルタントをしながら関わったプロジェクトが、2002年サッカーW杯に向けてのサッカースタジアム設計でした。欧州で生まれたサッカーに相応しいスタジアム、それは選手がやる気になり観衆が興奮する空間が求められるわけですが、このエッセンスを日本側は探しあぐねていたのでした。ぼくは日本からユベントスに研修にきていたJリーグのコーチの意見に耳を傾けたりしながら、ぼくが何をできるかを考え始めました。ここで、サッカービジネスを横目で見ていた経験が活きました。

渡辺氏が大規模スポーツセンターを設計したときに知り合った構造設計家マイヨヴェスキは、ローマ、トリノ、モントリオールなどのスタジアム設計に関わっていた人でした。テンション構造や膜構造の第一人者です。構造そのものを美しく見せる人で、旧ミラノフィエラの中央広場にも、彼の設計した大テントが張ってありました。ミラノ中央駅前のあのスマートなピレッリビルを1950年代に設計したのはジオ・ポンティですが、構造設計はネルヴィです。どうしてラテン系の構造は、こうもデザインに冴えるのだろうと興味をもちはじたのです。いわゆるミラノデザインの世界とは距離をおいていたぼくにとって、これは貴重な才能だと思いました。

日本の技術を駆使した建材や設備が、メーカーが胸を張って思うようにはイタリアで歓迎されない という経験を積むなかで、イタリアから日本に紹介していく商材を考えるほうが現実的なのではないかとも考えていました。文化的な影響がやや入りにくいハイテク製品とは違い、住環境に関わる製品は文化の壁を越えるのに時間が必要だと認識していたので、サッカースタジアムのように欧州の基準が優先されるソフトの輸出に関わっていくことを試してみたいと思ったのです。

rb12

渡辺氏が設計、マイヨヴェスキが構造設計を担当。この営業にぼくも走り回りました。1994年米国でのW杯ほど腹がきりきりする思いで見た試合はありません。イタリアが勝ち進めば進むほど、「あの強豪のイタリアが使うスタジアムを設計した人間の登用を考えてみませんか」という文句が言いやすいだろうとわけもなく思い込み、イタリアの試合に一喜一憂したのでした。ブラジルとの決勝でPK戦となり、バッジョのシュートがゴールを外れたときの脱力感はたまりませんでした。

このエントリをはてなブックマークに追加このエントリをdel.icio.usに追加このエントリをLivedoor Clipに追加このエントリをYahoo!ブックマークに追加このエントリをFC2ブックマークに追加このエントリをNifty Clipに追加このエントリをPOOKMARK. Airlinesに追加このエントリをBuzzurl(バザール)に追加このエントリをChoixに追加このエントリをnewsingに追加

Category さまざまなデザイン, 僕自身の歴史を話します | Author 安西 洋之