僕自身の歴史を話します(12)ートリノの生活
Date:08/6/24
じょじょに建築分野に足を踏み入れ始め、そこで分かったのは「このままトリノにいてはいけない」ということでした。車業界のビジネスにはよくても、建築関係となるとミラノでした。トリノの建材や家具などのメーカーは、イタリアでは優秀でも海外市場に進出していくには力不足の感が否めなかったのです。突出している会社がないわけではないのですが、平均を狙った時に難しいということは、ビジネス上のリスクが高いことを意味します。
ミラノからコモ近くには有名な家具メーカーが多いですが、かといってミラノの周囲なら良いとも言い切れません。ただ、ミラノから東、ボローニャやヴェローナなどの都市周辺に良いメーカーが多く、交通の便も良いのです。トリノから出かけると一泊しなくてはいけないところも、ミラノからは日帰りでいけます。ミラノに名の知れたデザイン事務所が多いことは、引越しのあまり積極的な理由になりませんでした。 デザインでは平均点はあまり意味がなく、抜群であり、かつ個人的な絆が強いことが重要であることを、宮川氏とジュージャロの関係をみながら学んでいました。逆にいえば、100通のダイレクトメールを送り会った建築家20人のなかに、これに賭けようと思う才能を見出せなかったとも言えます。また他方、なんでもまずリサーチありき、というぼくの行動自身が、野武士になりきれていなかった部分でもあったとも反省しました。こうして1994年の春、ミラノに拠点を移しました。

思いおこしてみれば1980年代の中ごろ、小学館『カーデザインの巨人ージウジアーロ』を買って読んでいたのです。この本の巻末には、特別寄稿で宮川氏の「ジョルジェットの涙」というかなり長い文章があり、二人の長い歴史や映画の黒澤明監督やソニー元会長大賀氏との交友などが記されています。しかし、そのときぼくはこの宮川氏の文章に全然反応していなかったのだ、ということを後になって気付きました。出会いが人を作りますが、機の熟さぬ出会いはチャンスを作りえない。そういうことでした。さて、ミラノで待っていたことは何だったのか。「ミラノでのスタート」として、次回から書きます。






