僕自身の歴史を話します(11)ートリノの生活

20軒ほどの建築事務所との面談で、いくつかの小さなプロジェクトが生まれました。ほんとうに小さな小さなプロジェクトです。でもとにかく、何かを一緒にやる経験がどうしても必要でした。イタリア人の建築家が日本に何を求めているのかがだんだんと分かってくるにつれ、一方で日本の建築家がイタリアから何を得たいかも分かってきます。当然ながら、それはなかなか交差しません。ボッカという唇の形をイメージしたソファをデザインしたストゥディオ65のメンバーも、この20軒のひとつでした。また、建築家を介して現代音楽の女性研究者とも知り合いました。音大のピアノ科を卒業した家内は、この研究者が書いたクラシック音楽のコンサート批評を毎月日本語に訳し、日本の雑誌に6-7年にわたって掲載しました。欧州の音楽事情や考え方を知るに、脇で見ていたぼくもずいぶんと良い勉強になりました。

既にその時に25年近くイタリアで建築家として活躍してきた渡辺泰男氏と出会ったのも、1993年でした。槙文彦氏の事務所の後、ミラノの都市設計家であるジャンカルロ・デ・カルロのもとで、ウルビーノ大学の寮の設計を担当し、その後、ペザロで3人のイタリア人パートナーと建築事務所を経営していました。他のイタリア人は構造や営業担当で、渡辺氏が設計の責任者です。今では40人以上の所員がいる事務所となっています。

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数多くの公共建築、殊に学校建築の設計を多数行い、ペザロの1万人収容のスポーツセンターを設計し施工が進んでいる時期でした。日本とイタリアの両方の都市計画と建築をリアルに知っている方です。渡辺氏に「アドバイスを今後お願いします」と申し上げると、「いいですよ」と快諾してくれました。「イタリアにいる日本人で、あなたのようなビジネスプロデューサー的な人は少なかったから、面白いでしょう」「よくギブ・アンド・テイクというけど、ぼくはギブ・アンド・ギブという考え方もいいと思う」という言葉を伺ったとき、どうして皆さんこんなに心が広いのだろう、と心から感じ入りました。

1993年といえば米国でサッカーのW杯が開催される前年、日本では2002年の開催誘致活動を繰り広げ、全国に10以上のサッカースタジアムを用意しないといけない。そこで、日本の多くの建築関係者が、1990年のイタリア90で使われたスタジアムの視察に来ていた。そういう時代です。

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Category さまざまなデザイン, 僕自身の歴史を話します | Author 安西 洋之