僕自身の歴史を話します(10)ートリノの生活

トリノの会社らしからぬ事務所は、F1やサッカーなどのスポーツビジネスをスタートしはじめた頃でした。スポーツは好きですが、スポーツビジネスはぼくの目指す世界ではないことは、自分でよく分かっていました。そういう世界がどういうものなのか、知っていることが大切ですが、そのなかに生きるのはぼくではない。そして、スポーツ関連にリンクする場合のコネと勘があればよいだろうと思っていたのです。宮川氏には「本当に好きなことをやれ」と言われていました。好きなことというのは、何かのために実際に体を動かし、そのプロセスのなかで分かってくるものだ、ということにおぼろげながら気づき始めていました。頭のなかで「これが好きだ」と決めつけるものでもなかろうということです。

ぼくは都市計画に興味がありました。が、その世界の人間を知ったからと言って、そこで何らかの仕事ができるはずもありません。それには小さな規模のビジネスも成立可能な建材やインテリア商品の輸出入で、現実を知っていくことからはじめるのが良いのではないかと思いはじめました。しかし、実行に移すのは遅く、そのまま「卒業」の時期がきてしまいました。卒業までのビジネスプランナー修行は2年の予定でしたが、結局は3年半でした。多くの人と知り合いました。その間、いくつかの企画を試みはしたものの、自分でゼロから生み出したビジネスはありませんでした。実施に至ったのは、他人の発案にのったものが大半でした。やはり、ヨチヨチ歩きから野武士になるには時間が必要だったのです。

結局、尻に火がついて、現実がより見えてきます。それまでは自分が見えていたと思った現実は、すべて宮川氏に守られた世界でした。イエローページでトリノの建築事務所の住所を片っ端から調べ、およそ100通の手紙をダイレクトメールとして送ったのは、1993年の後半だったと思います。手紙は、「建築分野で日本とイタリアが協力しあえることは何か知りたいからリサーチに協力して欲しい。そのために一度伺いたい」という内容です。イタリア人の親友にイタリア語の文章を直してもらい、どのようにアプローチすれば心がつかめるかを教授してもらいました。。

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手紙が届いたタイミングを見計らって、それらすべてに電話をかけていきました。「手紙をお送りしたのですが、読んでいただけましたか?一度、お会いしていろいろと話し合いをさせていただきたいのです」と。「そんな手紙、もらっていない」「忙しくて会えない」という冷たい返事が多いなか、20軒程度の事務所とのアポイントが取れました。他の人が知らない、ぼくしか知らない世界を作っていくには、こういう方法をとるしかない。それがぼくの宝になっていくのだ。そう考えたのです。これで一歩踏み出したという実感をもちはじめました。

1988年に宮川氏に最初の手紙を送ってから5年の年月を経ていました。

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Category さまざまなデザイン, 僕自身の歴史を話します | Author 安西 洋之