ジャック・ル・ゴフ『子どもたちに語るヨーロッパ史』を読む

最近、若い世代のクルマ人気の低下がよく語られています。が、子供、特に男の子の様子を見ていると、「クルマ離れは青年時の後天的(?)なもの」という感じがします。やはり俄然、動くモノへの興味が強く、機関車トーマスやプラレールの洗礼が伝統的でさえあります。床にはいつくばってミニカーを走らせているその姿は、大げさにいえば、まさに古典が今に生きています。任天堂DSでカーレースに興じるのにクルマに関心を失うのは、成長のうちのどこかに何らかの事件があったから?という気にさせられます。逆にいえば、子供時代のある事柄にたいする関心のもちようはそれだけ重要ですが、その維持も同じく大切だということになります。

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今日、明治大学の管啓次郎さんの東京新聞でのインタビュー記事を読みながら、そうだなあと思いました。ある時、ヨーロッパの伝統的な文学に大国主義的な匂いを感じ始め、かつての植民地から生まれてきた作品に惹かれていった管さんの言葉です。

「でも一九九○年代に多文化主義が流行したから、クレオール的な作品が書かれたのではない。移民や植民地化の長く過酷な歴史の中で、彼らは力強く優れた作品を生み出していた。それが時代の趨勢(すうせい)によって意味づけられ、出版市場と結びついて噴出した。また、そんな歴史的枠組みを念頭において僕も旅をしているわけではない。何でもない人々の生活や、誰もいない砂漠や荒野を眺めるのが好きです。文学の趣味も、ミステリーのように都市社会のなかで完結する物語は肌にあわない。自然界を探る博物誌や、いくつもの風景や暮らしの局面を素描する紀行文に魅力を感じます」

イタリアも植民地をもった側ですから同じではありませんが、ぼくもイタリアに住み始めてから、北ヨーロッパの論理がすべてではないことがよく見えてきました。もともと日本からみるヨーロッパということで、ヨーロッパは客観的にみる対象でしたが、ヨーロッパに住んでそのなかにあるロジックの前提で疑うべき点が沢山見え始め、そのうえで北と南のロジックの違いにも気づくようになります。ファビオ・ランベッリ『イタリア的』岡田温司『イタリア現代思想の招待』を読んで膝をはたと打つのは、強すぎる北ヨーロッパの論理に対する反発だけでなく、論理自身の無理をみるからです。

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そこでアナール学派のジャック・ル・ゴルフです。本書では、やさしい言葉で前半はヨーロッパ通史、後半は中世が語られます。かなり反省的な通史ですが、ここで満足する人がどのくらいるかなという意地の悪い見方が、ぼくのなかでもたげないわけではない。しかし、この本の白眉は、後半の中世の日常的感覚を説明したところではないかとみると、ぐっと面白さがでてきます。中世はローマ帝国が崩壊して古代が終わる5世紀からルネサンスがはじまる15世紀であるという通説に対し、産業革命のはじまる18世紀まで中世であった。なぜなら18世紀に西ヨーロッパの社会生活が大きく変革したからだ。これがル・ゴフの主張ですが、少なくても1000年以上の長きに渡って、よく否定的にとらえられる「暗い中世社会」だけが続いていたわけではないことは、生活する人々の感覚をみていくことで浮き彫りにされていきます。

中世は、たとえロマン主義者が好んで想像したような黄金時代ではなくても、欠点やわたしたちが嫌いな面があったとしても、ユマニストや啓蒙主義者がそのイメージを広めようとしたような、反啓蒙の悲しい時代などではありません。中世は総合的に考えられるべきです。古代と比較すれば、中世は数多くの点で進歩と発展の時代であることを、のちほど明らかにするつもりです。確かに<悪しき中世>は存在します。(中略) しかし今日、私たちはもっと多くのものを恐れていますし、そのうちのいくつかはずっと大きな恐怖を引き起します(たとえば、地球外生物への恐怖、とても現実的なのが原子爆弾の恐怖)。

加藤周一『日本文化における時間と空間』で日本文化は水平線が強調され、ヨーロッパのように垂直方向にいくことはなかったとありましたが、この垂直に対する説明が本書にあります。中世の住居はたいてい質素だったが、二つの例外的建物があったと指摘します。

(城砦と大聖堂)の二つの建築物が中世の人々の精神には不可欠であり、中世の重要なシンボルでした。すなわち騎士の住居であるある城砦と、神の住まいである大聖堂です。

この二種類の住居は、その高さによって、はるかな高さがもつ意味と、見上げるべき方向を、教養人にも民衆にも指し示したからです。中世には上下の対比が<空間に投影>されています。人びとは下から逃れることを願って、非常に高くて、よく目につく塔や城砦を建造しました。別の言葉で言うと、上と高さは偉大さ、美しさを表すのです。(中略) すなわち大聖堂の高さは、天にまします神の崇高さを反映しているのです。

中世に「ヨーロッパ」が誕生したがゆえに、中世に目をよく向けるようにル・ゴフは説きます。その時に生じる何らかの違和感ー管さんが感じるようなーをどう解消していくかが、特に非ヨーロッパ人の場合、問題になってくるでしょう。無論、ヨーロッパ人でも、いやだからこそ強くつきまとってくる問題でもありますが、日常生活でみる心性に踏み込むことがヨーロッパ再考の鍵であると、はっきりと言ってもいいのではないかと思います。ヨーロッパと動くモノ、クルマを対比するのは気が引けないわけではないですが、関心を引くアプローチの仕方として参考にしてもいいのではないか・・・と考えないでもありません。

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Category 本を読む | Author 安西 洋之