管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』を読む

10月末、明治大学の大学院で管啓次郎さんのゼミに参加したとき、フリードリッヒ・キットラー『グラモフォン フィルム タイプライター』を精読していました。メディア論がテーマです。管さんがホワイトボードに書き綴る言葉は、「文学作品も科学論文もある時代に特有の考え方を表現しており、それらは対象をあらゆるジャンルで問い続ける」「発明や発想は組み合わせでできている」・・・・という説明で続きますが、「メタファーの思考は思い出すこと」であり、それは何らかの痕跡から思い出すことだと語調を強めた時、管さんにとって「痕跡」という言葉がキーワードなんだと気づきました。

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その日頂戴した新刊『本を読めないものだから心配するな』を数日間に渡って読み進めましたが、やはり「痕跡」が重要な役割を担っています。

読書とは、一種の時間の循環装置だともいえるだろう。それは過去のために現在を投資し、未来へと関連づけるための行為だ。過去の痕跡をたどりその秘密をあばき、見出された謎により変容を強いられた世界の密林に、新たな未来の道を切り拓いてゆくための行為。(中略)読書の戦略とはさまざまな異質な過去を、自分だけでなく無数の人々が体験しその痕跡によってなぞってきた過去を、どのようにこの加速の機構をつうじてひとつに合流させてゆくかということにほかならない。そしてこの流れだけが想念に力を与え、自分だけでなく、「われわれ」の集合体の未来を、実際にデザインしてゆく。

冒頭に近い文章です。ここに既に「痕跡」は二度登場しています。ぼく自身、この痕跡がもつ意味について随分と今まで気にしてきたはずなのに、どうして「痕跡」という言葉を用いなかったのかが不思議だ、と思うほどに「痕跡」という言葉を使うことで新たな地平が開けてきた感がします。そのためか、先週書いたぼくのブログでは今まで使ったことがない、この「痕跡」をあえて使ってみたほどです。読書を書棚に並ぶ本の列をなぞることではなく、自分の頭の中に入り込む連続性あるテクストの生成プロセスとしてとらえています。それらに発揮する消化能力と結合能力の主体が読書人です。多分、その観点からでしょう、この本には目次がないし、章分けもありません。ここにあるのは「痕跡」に至るプロセスと「痕跡」を再生するプロセスです。そして、もう一つキーとなる言葉があります。「翻訳」です。

もっとも単純にいって、翻訳とはある記号体系と別の記号体系の間に対応関係をうちたてることです。そして、この対応関係が、ひとつの自然言語と別の自然言語のあいだにうちたてられるときのことを、常識的な意味で、常識的な意味で、われわれは「翻訳」と呼んでいます。

そして、「翻訳しようとする意志において、人は類似性と差異を同時に発見するのだといっていいでしょう」と管さんは指摘しますが、引用しているメキシコの詩人オクタビオ・パスの文章は、ぼくが考え続けている「文化と商品ローカリゼーション」の問題にも多大な示唆を与えてくれます。長いですが、そのまま引用を書き写しておきます。

翻訳はある言語と別の言語のあいだのさまざまな差異を克服するが、同時にそうした差異をいっそうよく暴き出すことにもなる。翻訳のおかげで、われわれは隣人たちが、われわれとおなじようには考えもしないことを、意識するようになる。一方で、われわれにむかって提示される世界は、類似点を集めたものだ。だが他方で、それはどんどん積み重なるテクストの山、しかもそれぞれが先行するテクストから見て少しずつ異なったテクストの山なのだ。すなわち、翻訳の翻訳の翻訳。それぞれのテクストはたったひとつのものだが、同時に、それは他のテクストの翻訳でもある。どんなテクストも完全にオリジナルではありえない。なぜなら言語それ自身が、その本質そのものにおいて、すでに翻訳だからだー最初は、非言語世界からの翻訳であることから。とはいえ、この論理の逆もまた完全に有効ではある。あらゆるテクストはオリジナルだといってもいい、なぜなら個々の翻訳は、それ自身のはっきりした特徴をもっているから。ある程度まで、個々の翻訳は創造なのであり、したがってひとつしかないテクストを作りあげている。

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コミュニケーションは問題解決と問題発生の両方の原因になります。ここにあるように、「類似性」と「オリジナル性」の見極めは、題材そのものに既に内在しており、これは悲観的にとらえるか、楽観的にとらえるか、そのバランスがわれわれに厳しく問われています。100%の解釈はありえないし、100%のコミュニケーションもありえない。そこを前提とした時、「解釈の許容」をお互いの駒として認め合う態度をどう維持するか、あるいはできるか、これが世の中にあるすべての問題のかなり多くを占めるテーマでしょう。「翻訳」という行為や仕事は、一般的に、実質以下の見方をされていることが多いと思いますが、これは大きな間違えであることが、本書を読めばよく理解できるはずです。「翻訳」こそが、鍵であると思い至ります。また、各ジャンの専門家というのが、いかほどにものが見えない立場であることが、声を大にせずとも自ずと分かってくる、そういう効果(?)も本書にはあります。爽快になる気持ちのよい本です。

<2010年2月13日、「管啓次郎X佐川光晴のトークセッション」を書きました>

http://milano.metrocs.jp/archives/2906

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Category 本を読む | Author 安西 洋之