僕自身の歴史を話します(5)ー日本を離れるまで
Date:08/6/13
1989年4月末、ストックホルム経由でミラノに飛び、そこからトリノに電車で出かけました。連休直前に決めた旅で、そういう手段を使うしか方法がありませんでした。トリノのホテルに着いた翌日、宮川氏の長男が、設立して2-3年目の会社に案内してくれました。フェリーニの映画「インテルビスタ」や黒澤明「影武者」で助監督をつとめた彼は、その頃、ビデオ製作をしていたのです。F1のパイロットがアルプスで行うスキー大会の様子を見せてくれ、「プロストやピケたちと友達になったよ」と話してくれました。24-5歳だったと思います。
2日目は自宅での昼食に招かれました。国王が生まれた建物の向かいにある天井にフレスコ画が描かれた家に、その「地球家族」が住んでいました。日本、韓国、インド、イタリア、それらのハーフ、さまざまな顔の子供たちがあの日も5-6人いました。 宮川氏は「昨日みた会社、いいでしょう。僕もね、子供が学校を終えたら親の教育は終わりだと思っていたんだ。でもある人に言われた。子供がちゃんとした職業人、家庭人になるまで親は教えるべきだと。手取り足取り教えるのではなく、僕達夫婦の背中をみて育って欲しいという目的であの会社を作ったんだよ」と説明してくれました。

まだ独身の身にとってはあまりピンと来ない話でした。この趣旨が如何に大切なものかを知るには、その後の自分自身の体験が必 要でした。とにかく10人近くでテーブルを囲んだ食事は、「国際的」などという言葉が簡単に吹き飛んでしまうような強烈なインパクトがありました。夫妻が言う「開かれた家族」の活動の場がまさしくここにあり、外部の人間を実にスマートに内に入れてくれる空気があります。
前日みた会社は会社と呼ぶにはあまりにエレガントな空気があり、その感想を伝えると、宮川氏いわく、「あそこは仕事をするというよりモノを考える場所ですね、とお客さんに言われるよ」と笑って答えてくれたのです。






