ヨーロッパ文化を伝える(1/6)
Date:09/9/19
個人的経験が本当に身につくというのは、どういうことを言うのでしょうか。ぼくもよくありふれた表現、「血となり肉となる」を使いますが、これが「そうだ!」とはなかなか指摘することができません。指摘できる段階では、まだ「血となり肉となっていない」のかもしれません。あることが分かるとは、あることを分かると自覚するステップを越えることかもしれません。どうして、こういうことを書いているかと言えば、ぼくがヨーロッパの文化をどう伝えるのが一番いいのかを常日頃考えているからなのですが、ぼくが自覚してない分かっていると思われることをどう見つけどう表現するか、です。これは人に伝えて指摘され初めて分かることが多いです。
まず一つ言えそうなことは、ぼくが語るヨーロッパ文化は、生活して分かることから発しています。生活するというのは、電話屋さんと口論したり、子供の学校の先生の振る舞いに怒ったり、思わぬところで道行く人から優しい行為をうけるとか、そういう24時間の全てを含みます。そして、できるだけ世間に境界線がないことではないかと思うのですが、実はそうは言っても、かなり境界内で生きています。どういう境界かといえば、いわゆる日本人駐在員の生活圏とは離れています。しかし、例えば中東や南米かの移民の人達とは仕事圏をかなり異にしています。だが息子の学校に行くと、かなり自然にそういう世界があります。アラビア語やスペイン語も交差しており、久しぶりに出かけると、日々狭い世界にいるなと痛感します。

『ヨーロッパの目 日本の目ー文化のリアリティを読み解く』を書くとき、ぼくが立てるポイントを考えました。世の中に数多くある「生活記録モノ」と呼ばれる本は沢山のエピソードが満載され、それらの多くはぼくも経験のないものであることも当然ながら珍しくありません。しかし、それらの本で満たされないもの、それはカバーしたいと思いました。満たされない点を救うとは、そのエピソードの数々を鳥瞰的に眺めてみることです。「ああ、トラブルにあたって大変だったね」では終わらない、個別の事例を如何に水平展開するかです。そのような本は、ヨーロッパ人と一緒になった人の手によることもあり、そのなかの経験はぼくには知らない濃さをもっていることもあります。
そして、その水平展開に目的をもつことも考えました。そして、文化調査レポートなどにある観察記、あるいはアカデミックなフィールドでの分析にある不自然さを超えること、これがぼくの課題です。「この事件は、カントの生まれた国ゆえのものだ」と今目の前にあるアクシデントに対して言われても、それは「あなたの考え方は、新井白石の国ゆえのもですね」と言われるのと同じで、「それはそういうことも言えないこともないけど、それは、確率の問題かもしれませんね」としか言いようがないです。語ったようで語っていない。ヨーロッパのことを、何でも狩猟民族とキリスト教で説明できるわけがないのです。これは避けなければいけない、そう思ったのです。目的はビジネスに何らかの面で貢献することです。

生活シーンを重視すること、水平展開ではビジネスを視座におくこと、このような点を自分の立ち位置として想定したのですが、もう一つはできるだけ視覚化された材料も使いたいという点です。アートも一つですが、デザインのほうがより生活に近い、かつグローバルでの比較がしやすいという観点から、デザインの見方を基点にすることを考えたわけです。もちろん、ぼくがデザイン業界に足を突っ込んでいるということが大きいですが、サブカルチャー的な側面からもデザインは重要な要素キーであると思います。
→次回に続く。






