皮膚感覚で理解する

文化人類学のエドガー・ホールの文章を今まで何回か引用しましたが、ぼくの36冊の本のなかで、以下のように書きました

「異なる文化に属する人々は、違う言語をしゃべるだけでなく、おそらくもっと重要なことには、違う感覚世界に住んでいる」という部分が、ぼくにとってのホールのポイントだと思う。そして、ユーザーの感覚や知覚とダイレクトにつながっている製品がどんどん増えていっているにも関わらず、この「眼に見えない文化の次元」にあまりに鈍感であることが、生活から経済までの大状況までの広い範囲に悪影響を与えている実態を、日本のメーカーは認識すべきだ。

ここでいう「違う感覚世界」というのは分かるようで分からない言語化しずらい世界ですが、「情報考学」の橋本大也さんが小林弘人『新世紀メディア論ー新聞・雑誌が死ぬ前に』のレビューを書いていて、「皮膚感覚」という表現は適切かもしれないなと思いました。

私たち二人はあるとき、日本の大手新聞社のシリコンバレー支局を訪ねた。向こうの駐在員も2名であった。彼らは「やがて神田さんとか橋本さんのようなフットワークが軽い人たちに大手新聞社はやられてしまうかもしれない」と言っていたのを思い出す。当時の私のように、”何で食っているのかわからないような人たち”が、メディア企業の脅威になるのだと思う。

新しいメディアのプロデュースにおける心構えとして小林氏は、次のように語っている。メディアだけでなくITビジネス全般にも通じそうな話でもある。

「新しいプラットフォームがつくるスフィア(生態圏)では、そこに棲む人たちの関心や行動パターンなどを、皮膚感覚で理解する必要があります。それが「その他大勢」よりも優位に立てる条件であり、ライティングや動画製作のプロであるか否かは二の次だとわたしは考えます。」

正確にいえば、この「皮膚感覚」は小林氏の言葉です。しかし、橋本さんはこの言葉を自分のものにしている印象を受けます。多分、何よりも橋本さんご自身が、この皮膚感覚で「その他大勢」よりも優位に立ったのではないかと思うからです。それはさておき、つまり誰が言ったということに固執せずに書き続けますが、専門的な知識や訓練よりも、「この世界がいい」「この世界はついていけない」と断言できる感覚がまず第一であるとすることに同意です。ぼくがミラノサローネ2008や2009で延々と書いたことは、突き詰めれば、異文化デザインへの違和感の処理に注意を向けることでした。ヨーロッパの空間での皮膚感覚なしに、ヨーロッパ市場で売れる商品を作るのは至難の業であることを書いたのです。それはどんな定量調査や定性調査でも出てこない部分です。あるいは出にくい部分です。

bs

今、世代間のいがみ合いとでもいうべき論争が日本で盛んですが、これは60年代末の社会運動に近い対立が心理的にあるような気がします。いつの世でも世代間の確執はありますが、この数年にみる様子は1970年代中盤以降から30年近く続いてきた静かなマグマの動きが一気に噴出するような感があります。ぼくはそれぞれの世代の主張にそれなりの正当性をみていますが、お互いがどう話してもなかなか超えられないのは、世代それぞれがもつ「皮膚感覚でもつリアリティ」だと考えます。これはどうあがいても、お互いに否定しがたい感覚です。そういう意味で文化解決が求められるところだろうと考えています。

加藤周一が講演のなかで、老人と学生が共同戦線を張ると世の中が変えられると話しているのをYouTubeでみましたが、欲を離れた部分で自分を表現することができたらー学生も老人も「無欲」という言葉に縁があるー世界は面白くなると思います。欲がみなぎっているうちは、若者に透明な意見を伝えることはできないでしょう。若者も仕事をはじめると世界の現実性に翻弄されるでしょう。だから明らかに「何で食っているか分からない」人達が動くと世界は変化できるのです。

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Category その他, 本を読む | Author 安西 洋之