黙る居心地の悪さ

今週から衆議院の選挙運動がはじまり、公職選挙法の縛りをうけて、発言を控えないといけなくてストレスだと訴えるブログが増えてきました。経済学者の松原聡氏は「選挙で応援をしたが、その名前は書けない」と記しています。また、同じく経済評論家の山崎元氏も同様にネットが解禁されない現状に不満を述べ、「当然でありふれた意見だと思うが、言っておく」と締めくくっています

一方、「動いている車では候補者の名前しか言ってはいけない」という法律から、同じ名前を何度も繰り返し聞くしかない。これはまともじゃない。でも実際のところ、候補者本人は朝早くから夜中遅くまで身体を張って駆けずり回っているので、HPやブログを更新しようにもできないのが本音とあります。永田町の議員会館に行けばすぐ分かりますが、政治家というのは普通でも猛烈に忙しい人達ですが、この期間中は尋常さを超しています。「ネットなんかに係わっていられない」でしょう。

er

ケータイやネットに依存した若い子をそれらから隔離したら、数日で泣き始めた子がいました。TVでこの実験が紹介されたことを思い出します。が、泣くのは候補者ではなく、政治についてより語りたい投票する市民のほうです。ネットで普通に意見を述べ人のそれを収集するのが日常の一部になった今の世の中で、現行公職選挙法の定めた世界は、そうとうにイビツです。が、もしかしたら、厳密な管理社会の例としては興味深いかもしれません。まあ、こういうことだから、「ネットを駆使したオバマの選挙運動を参考に」という内容の話しが並行して多くなります。オバマの選挙運動について説明しているフライシュマンヒラードの田中慎一氏が以下のような流れで、オバマの多様性が国民に受け入れられたと語っています。

従来のコミュニケーションとは何か。今、グローバルな世界で支配的なコミュニケーションのあり方は“説得型コミュニケーション”という方法です。欧米流のコミュニケーションはルーツをたどると、アリストテレスの『弁論術』から始まります。『弁論術』は基本的にはディベートで、相手と自分との対立をある程度前提にしています。「こちらが是で相手が否。いかに相手を説得するか」という手法です。それをベースに欧米流のコミュニケーションは体系化され、技術化されています。

しかし近年、欧米的な説得型コミュニケーションが1つの限界を迎えています。イラク戦争もそうなのですが、「一元的な価値観に基づいた説得」が効かない世界になってきた。それは当然ながら世の中がだんだんと多様性を帯びてきているからです。

「また、これかよ」とぼくは思います。そんなに一元的で対立的な世界に誰が住んでいるの?米国の一部の話じゃないの?今までも何度か、米国は封建制度と戦わず、宗教改革も経験したことのない、未経験の部分が多い社会であることを指摘してきましたが、これが「欧米的」であるとは程遠く、その視点で「今オバマに代表される多様性が受け入れられるのだ」と言われても居ごこちの悪い思いがします。何かにおいて説得的であることが、こうした一元的価値と並列されるのは不思議ですし、だいたい西洋が一元的価値社会であるという言説自身がものすごく古臭い、リアリティに欠ける話です。そして、この発言の後には、お決まりの日本は多くの神を担ぐ多様性があるから、次代は日本文化が作るという論理が踊っています。

fp

せっかくの「選挙の意見交換に日常化したネットを排除しない」というプロモートが、こういう説明で色あせるのはもったいないなと思います。いずれにせよ、「一様に黙る」多様性ある社会は論理矛盾です。特定の時期に(強制的に)黙るしかないということが認められている精神風土自身を問題にすべきかなという気がします。

このエントリをはてなブックマークに追加このエントリをdel.icio.usに追加このエントリをLivedoor Clipに追加このエントリをYahoo!ブックマークに追加このエントリをFC2ブックマークに追加このエントリをNifty Clipに追加このエントリをPOOKMARK. Airlinesに追加このエントリをBuzzurl(バザール)に追加このエントリをChoixに追加このエントリをnewsingに追加

Category その他 | Author 安西 洋之