伊東乾と湯浅譲ニの対談;「コスモロジーはグローバリズムを超えて」

少々前の記事になりますが、日経ビジネスオンラインで興味惹かれる記事がありました。作曲家同士の対談で、伊東乾氏と湯浅譲ニ氏です。毎回10ページ近い対談が3回に渡って紹介されていて、かなりのボリュームですが3回目の分だけでも読むと良いと思います。デザインと直接繋がってくる話題です。URLは以下。抜粋してコメントをつけていくことにします。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090702/199162/?P=1

湯浅 僕は伝統のいい面を受け継いで、それを敷衍(ふえん)していきたいと思う側の作曲家だと思うんですよ。じゃあ、そこで「伝統」は何かという問題ですよね。例えば邦楽の伝統というのは、ペンタトニック(五音音階)であるとか、そういうことか、と言うと。

―― ドレミソラ、とか、レミファラシとか、演歌みたいな四七抜き音階(4番目と7番目の音がない)であれば伝統だ、なんてバカな話があるわけもなく・・・。

<中略>

湯浅 ですから伝 統的なものは、例えば尺八じゃなくてフルートでもできるし、あるいは電子音楽でさえもできるとずっと思っていたんですね。僕の最初の電子音楽の 「Projection Esemplastic(プロジェクション・エセムプラスティク)」なんかも、完全に僕は日本の伝統を意識しているんですね。

―― 実際、時間の構造というか、持続の経験が、お能のそれのように感ぜられます。

湯浅 そう、伝統 とは何かというと、僕は具体的な伝統の現象を作り出してきている精神構造の問題だと思うんですよね。ですから、物の考え方、ウェイ・オブ・シンキングと か、あるいは感じ方とか、そういうものを受け継いでいって、表現するのは、何も伝統的なものとして残っている表現技術じゃなくて全くいいと思うんですね。

伝統を何とおさえるかですが、伝統とは精神構造の問題だというのは、デザインの世界ではかなり一般化した常識になりつつあるのではないかと思いますが、現代音楽の世界でこういう「ベタな伝統」をあえて否定するように論じられているところが気になります。しかし、これは現代音楽の専門家を読者として想定していないので、あえて位置関係を明確にするための会話かもしれないとも思います。

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いずれにせよ、デザインの世界で常識化したといっても、相変わらず「ベタな伝統」に引っ張れる作品が少なくないところをみると、頭でわかっても、表現となるとなかなか行き着かない領域であるともいえます。新しい復刻を試みたVWのビートル、ミニ、FIAT500、これら三つのクルマを比較して「どれが一番ベタではないか?」といえば、FIAT500に軍配をぼくはあげたいです。多分、三つのモデルとも精神構造を引き継ぐという点では賞賛に値するでしょうが、それが表現されたとき、「上手くやったな」と多く評価されているのは、FIAT500でしょう。

以下、西洋と日本の差を時間の問題だとする指摘は、ぼくも同感です。

湯浅 ですから、 まず時間の問題というのが・・・一番僕の中で西洋と日本との決定的な差は時間の問題だと思って、それを西洋楽器でやる場合にどうやって記譜していくかとい うことで、僕は何十年も悪戦苦闘してきたと、振り返るとそういうふうに思えるんです。ですから伝統を受け継いでいくというのは、それを作り出してきた大本の精神構造というか、物の考え方とか、感じ方とか、そういうものを受け継いでいくべきだと思うんですね。そこから、実際の表現メディアが何であっても。

この次に語られる「普遍的無意識」は、もう少し説明が欲しい部分です。ぼくは、これまで音楽といえども、その作品と良いと思うには聞くトレーニングを必要とすることを強調してきました。湯浅氏は後述するように、ユングをリファーして普遍的無意識を指しているようですが、西洋クラシック音楽に感動する日本人、日本の旋律に息をのむ西洋人、これらの学習ステップと「普遍的無意識」の深さ加減をもう少し、素人にも分かるように解説して欲しいのです。

湯浅 それにもか かわらず普遍的無意識というのは、太古の時代から人間の脳幹に宿って、もしかしたら眠っているかもしれないようなものも含めて僕はあると思うんですね。そ こで僕は音楽の話をするわけですけれども、例えばドイツにも、ウィーンにも行ったことがないような人が、モーツァルトやバッハに感激しないかというと感激するわけです。そうするといったいそれは、ベートーベンにしても、モーツァルトにしてもフォークロリック(民謡的)なものはいっぱい持っていますし、ドイ ツ的なものがあるからこそ出てくるものも、それはあるんですけれども、そんなこととかかわりなく、バッハにしろ、ベートーベンにしても、日本人が感激する のは、おそらく彼らの音楽の何かが普遍的無意識に訴えてくる力を持ってくるんじゃないかなと僕は思うわけです。

<中略>

湯浅 そうすると 音楽はこうでなければならないということは、本質的に言えないということを、僕はみんな作曲する時に考えた方がいいと思うんですね。いろいろなものがあっ ていい。それは自分のコスモロジーから出てくるものだと思うということですね。日本語で考えるのは、言語はやっぱり思考をドミネートしますから、言語は支 配しますから、そうすると我々は日本語によって支配されていることは、ウェイ・オブ・シンキングだけではなくて、感性の面でもすごくあるんですね。

―― 本質的なポイントですね。

これは伊東氏が頷くように重要な部分です。ぼくは36冊のなかに入れたエドガー・ホール『かくれた次元』に以下200文字コメントをつけましたが、まさしく、この違った感覚世界に住んでいることを湯浅氏は指摘しています。

「異なる文化に属する人々は、違う言語をしゃべるだけでなく、おそらくもっと重要なことには、違う感覚世界に住んでいる」という部分が、ぼくにとっての ホールのポイントだと思う。そして、ユーザーの感覚や知覚とダイレクトにつながっている製品がどんどん増えていっているにも関わらず、この「眼に見えない 文化の次元」にあまりに鈍感であることが、生活から経済までの大状況までの広い範囲に悪影響を与えている実態を、日本のメーカーは認識すべきだ。

この話題はまだ続きます。英語でピッタリする言葉がない日本語表現の話題を日本人はことのほか好みますが、湯浅氏はそこで日本人の感性が素晴らしいなどと単純な発言をしません。

湯浅 外国に15 年もいると、英語圏ばかりではなかったので、感性の面で文化圏によって違ってくることがいろいろとあるわけですね。日本語でしか表現できない言葉もありま す。例えば「すがすがしい」とか、英語で言おうと思ったら、クールで、クリスピーで、クリアで・・・とか、いろいろ言わなきゃならないわけです。

―― 「すがすがしい」。とてもいい言葉の例ですね。

湯浅 それと逆に、英語で1語で、こんなにうまく言えるかということもあるんですね。それで、例えば学生の博士論文なんて読まなければならないと、もう、こんなの本当に、どうしても辞書を引かなきゃならなければいけない言葉っていっぱいあるわけですよ。

―― 米カリフォルニア大学サンディエゴ校の教授時代ですね。

湯浅 それを 4~5日で3人分見なきゃならないなんていうのは、すごく大変でした。けれど、ああ、こういういい英語があるかというのを時々見たりしてね。ですから、文 化圏によって、それぞれ言語によって人間の考え方、感性というのは違ってくる部分もあるし、それにかかわらず、最終的には人間全体の共有するコスモロジー とは何かという、本当は、僕はそこでユングの話をするんですけど、無意識が3段階に分かれていて、意識とつながっているわけですけれども、一番表層には個 人的無意識があって、真ん中には社会的無意識があって、一番底には普遍的無意識がある。

やや長いですが、内容を強調する目的で、これだけの分量を抜粋しました。丸山真男の「古層」など、歴史における層別の考え方はいろいろな人がしていますが、湯浅氏がユングを使ってコスモロジーを表現しているのは面白いです。それが普遍的無意識という層になるわけですが、これは何かの事象に嬉しいとか哀しいという層ではない、という点には注意しておくと良いと思います。

以上、記事の紹介ですが、ここから更にビジネス的に思うことは、ヨーロッパ文化部ノートに書くことにします。

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Category 本を読む | Author 安西 洋之