安西洋之の36冊の本(3)-「現代性」を主題とする12冊

36冊の最後(3)は「現代性」を主題とする12冊です。ここに入っている本は好き嫌いではなく、また良書や悪書でもなく、影響をうけたうけないでもなく、わりと最近たまたま読んだ本をあえて「現代性」を主題とした場合、どう読めるか?という観点で選びました。(1)と違い、この(3)の入れ替えは比較的容易です。次回、この36冊を選択しコメントをつけるという作業で抱いた感想を書きましょう。

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村上隆 『芸術起業論』(幻冬舎 2006年)
世界のアート市場で勝つためには、市場の文脈をよく知ることが必須で、且つ、作品を理解してもらうためには言語化された説明が重要であると、アーティストが自ら経験したロジックを説いている。これは日本で従来、アートは直感的な自由な受け取り方がキーで、作家自ら語るのは二流であるといわれてきたことの「嘘」を暴いている。アートの世界は文脈構築のアイデアが勝負である。この本を日本のビジネスマンはもっと読むべきだと思う。

水谷修 ほか 『いいじゃない いいんだよ』(講談社 2005年)
先輩であり親友の水谷修さんの著書は沢山読んできたが、毎日新聞記者と医師の三人で行ったこの鼎談が一番面白い。彼の本領と一番リアルな言葉が記されている。約30年のつきあいで、水谷さんが、ぼくに教えてくれたことは無数にある。どれだけ多くの視点をもち、それら視点の動かしかたによって、どんなに世の中が見えてくるかということが分かる。これも彼を通じて学んだことの一つだということを、本書を読んで気づいた。今、日本はまさに、新たな視点を獲得できずに苦労している。

近藤健 『反米主義』 (講談社現代新書 2008年)
週末マクドナルドに入るフランス人カップルは、路面寄りではなく、二階の奥に座る傾向があるという。第三国人で一杯だから「お洒落じゃない」という理由もあるが、米国発ファーストフードに対する距離感も出ているエピソードだ。反米主義はヨーロッパ圏からも「反」を唱えられるように、「近代」の変質に対する「反」という一面がある。ヨーロッパは普遍性を志向したが、米国には普遍性への原理主義的信念がある。これがイデオロギー、資本主義、文化、さまざまな面で魅力と「反米」を生んできた。

水村美苗 『日本語が亡びる時』(筑摩書房 2008年)
かつてのラテン語のように英語が普遍的な位置をしめつつあり、日本語などは現地語として存在低下していくという言葉に関する本。言語論として読むと、色々と粗が目立つ(特にグーグルの影響を過大評価)が、文化論として読むと面白い。日本の文学は、ディテールに優れ、世界観を示すという点では西洋文学に劣るというのは、日本のものづくりの完成品と素材や部品のポジションギャップにも通じる。しかし、この状況に甘んじてはいけない。

宮台真司 『日本の難点』(幻冬舎新書 2009年)
一人で日本の社会や政治の様々な問題点について語った。その「一人で」ということに宮台は拘り、その拘りにぼくは同感する。数多の専門家が語る切り取られた世界からは、次のアクションへの指針が何も見えない。郡盲像を撫でるに近い。そして、もう一点。包括的且つ文学的に語りつくすことを意図したという点。それが成功しているかどうかは疑問だが、その趣旨にも賛同。マニュル的に世界を語ることはありえないのだ。我々は曖昧性も含めてあらゆる問題の全体性のなかで生きている。

福野礼一郎 『クルマはかくして作られる』(二玄社 2001年)
今回の不況でみるように、自動車産業は相変わらず各国経済の屋台骨である。また金融は目に見えないが、ものづくりは目に見えるという。しかし、約3万点の部品からなるクルマの世界はあまりに膨大な組織が絡み合い、実は見えるようで見えないものだ。どこまでがクルマの世界とは言えないくらいに裾野が広い。この本は、さまざまな部品メーカーの現場を訪ね歩いて、開発や生産の実態をレポートしている。世界が理解できるというのは、こういうことを言う。

小山登美夫 『現代アートビジネス』 (アスキー新書 2008年)
村上隆や奈良美智などの作品を世の中に紹介し、日本のコンテンポラリーアート業界で先端を走っているギャラリストが、アート市場のメカニズムを語っている。基本は、アートの歴史を如何に作るか、そこにおいて、経済的要素は重要である。作品にどういった価格がつくかを、「金の話しじゃない」と軽く言ってはいけない。経済価値があってこそ、市場のなかに組み込まれ、美術史の文脈を作っていく部分があるのだ。「美しい」「きれい」「面白い」という形容詞だけでアートに接するべきではない。

Ishiguro “The remains of the day”
第二次世界大戦前、英国の貴族の館で欧州各国と米国の外交官たちが秘かに集まり、対ドイツ対策について協議する場面がある。そこで米国の外交官が、ヨーロッパの方法はプロフェッショナルではなく既に古いと批判する。ヨーロッパの文化が、シリアスな局面で、バランスがとれているがゆえに甘さととられるところが、この21世紀初頭においても起こっている。それでは米国のプロフェッショナリズムとは何だろうか?それが、どこまで長期的解決を導くのか?

ファビオ・ランベッリ『イタリア的―「南」の魅力』(講談社 2005年)
ヨーロッパを対象とした文化人類学の歴史がまだ日が浅いなか、イタリアのコンテンポラリーなテーマに文化人類学的に切り込んでいる。そこに新しさがある。しかも、日本文化をよく知るイタリア人であるがゆえに、日本のどの文脈にあてはめれば良いかのツボを知っている。二番目のアドバンテージだ。そして、イタリアの後進性が生んだ文化の強みと弱みが、また限界を作っている悩ましい姿が残る。サッカーのカテナッチョが劣等感や狡猾性の産物というのが象徴的。

福島清彦『ヨーロッパ型資本主義』(講談社現代新書)
昨年からの経済恐慌にあわせて出た本ではない。ITバブルがはじけて株式市場が低迷し、2001年の911以降の米国の一方的な外交戦略が目立ってきた状況を背景に書かれた2002年出版の本。副題が「アメリカ市場原理主義との決別」とあるように、「もう一つの資本主義」としてのヨーロッパ型資本主義を紹介している。ヨーロッパ各国で差異があるにせよ、「社会的」で「人の顔を見える」資本主義を目指している点では共通しているというのが趣旨。ヒューマンスケールが何事においても基本。

藤村信 『ヨーロッパで現代世界を読む』 (岩波書店 2006年)
パリに長く住んでジャーナリストとしての活動を行った著者の遺作。1968年より雑誌『世界』で連載された「パリ通信」は、多くのヨーロッパの今を見せ続けた。本書はブッシュ大統領によるイラク戦争、第二次世界大戦時の巨頭の動き、移民への寛容と極右の動向等に触れている。実は、正直に言えば「今更、藤村信の・・・」という感をもって書店で買った本だ。ノスタルジーで手にしたが、大いに裏切られた。政治に対するこの見方から若干距離をもっていた自分を猛烈に反省した。

フィッツジェラルド 村上春樹訳『グレート・ギャツビー』(中央公論社 2007年)
ぼくは大きな物語が好きだ。かつて日本の典型と言われた私小説の良い悪いではなく、社会全体を視野に据えた小説にぼくの趣味があるということだ。そういう点からすると、本書は微妙なところに位置するかもしれない。やや小さな物語に見えるからだ。が、必ずしも「ある場所」だけに佇んでいるわけでもない。そのあたりの「移ろい」をふくめると、世紀を大きく跨いでも「現代性がある」と表現できる小説かもしれない。村上春樹訳はその象徴だ。

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Category 安西洋之の36冊の本, 本を読む | Author 安西 洋之