安西洋之の36冊の本(2)-「今回」専門とする分野の12冊(ヨーロッパ文化・デザイン)

課題では「専門とする分野の12冊」なのですが、ぼくの場合、専門をもたない主義なので、表題にあえて「今回」という言葉を入れました。ヨーロッパ文化とデザインを対象としました。7月頃から「本を読む」というカテゴリーでレビューを書いていますが、もともと、この管啓次郎さんの課題に取り組むというのが動機でした。したがって、いくつかはこのブログで書いたこととダブります。文字数は全然違いますが・・・。

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ブローデル 神沢栄三訳『地中海世界』 (みすず書房 1990年)
ぼくは「地中海世界には全てがある」と声を大にして言うタイプではないし、そこまで地中海世界が好きなのかどうか分からない。だいたいぼくはアフリカ大陸に足を踏み入れたことがない。それでも、地中海世界が語ることは気になる。地中海世界ならこう語るだろうと、北ヨーロッパ文化が発する言説に対して思うこともある。そのとき、ブローデルが描く地中海世界は、やはり強い。そこには高い質の時間と空間の具体例がある。参照せずにはいられないのだ。

佐藤和子『「時」に生きるイタリア・デザイン』(三田出版会 1995年)
カーデザインを上におき、生活雑貨や家具のデザインを下に位置にみていた目を変えてくれた本。それまで、モノとしてのクルマへの愛着があり、経済規模の大きさからも自動車産業に関わることに意義を見出していた。デザインについても同様の目線をもっていた。しかし、イタリアデザイン史の主役はクルマより生活に関わる様々なモノのデザインであり、イタリア社会史や思想史とより密着な関係をもってきたのは後者であった。ミラノに生活する意味を自覚した。

武者小路公秀 蝋山道雄編 『国際学―理論と展望』(東京大学出版会 1976年)
大学の国際論の教科書だった。その頃、鶴見和子の近代化論や武者小路公秀の国際関係論の章を真面目に読んだ覚えがある。特に鶴見の内発的発展論は繰り返し読んだ。だが、平野健一郎の「文化関係としての国際関係」は一通りにしか読めていなかった。この章の面白さに気づいたのは、卒業して約30年後だ。そして、平野さんの研究室のドアを叩いたのだった。そこで紹介されたのが、以下の『国際文化論』である。

平野健一郎 『国際文化論』(東京大学出版会 2000年)
政治学者として国際関係論に文化人類学を持ち込んだ平野さんが、国際文化の見方について分かりやすく教えてくれた。文化の変化は「必要性による」という説明を読み、それまでモヤモヤしていた視界が一気に開けた。寿司もケバブーも、それぞれ「ヘルシー」という合理性によって普及しているのであって、日本文化やトルコ文化が先行しているのではない。これによって、文化性は商品開発コンセプトのコアにはなりえず、あくまでもコンセプトに「のる」ものであると認識した。

D.A.ノーマン 野島久雄訳 『誰のためのデザイン? 認知科学者のデザイン原論』(新曜社認知科学選書 1990年)
記憶とその再生は、日常世界におけるさまざまなモノや人を媒介にして行われる。人はその意味で極めてオープンな存在である。それがノーマンのいう「現実と結びついた認知」だ。人は事象やモノについて、それぞれに違ったメンタルモデルをもっており、それは地域や世代などにより、即ち文化によって異なってくる。したがって、対象とするユーザーのメンタルモデルを探求することが、商品開発上、極めて重要であり、そのベースとして文化の理解は必須となる。

ヤコブ・ニールセン 篠原稔和・三好かおる訳 『ユーザビリティエンジニアリング原論』(東京電機大学出版局 1999年)
さまざまな言葉で記述される説明に文化の壁があることは常識だが、グラフィックで表現されるアイコンが、世界の全ての人に理解されるわけではないという事実に関しては、かなりの人がノーマークである。同じ視覚イメージも、文化や習慣によって、全く違ったものを想像されうることが現実である。欧州ではアイコンは文字通り概念を表現するが、日本では視覚的イミテーションにいく傾向がある。こういうことは、一つ一つ、ユーザーテストして確認してデータを集積していくしかない。思い込みは危険だ。

岩田誠 『見る脳・描く脳―絵画のニューロサイエンス』 (東京大学出版会 1997年)
網膜は健全なのに脳の一部に欠損があるゆえにイメージが歪む、見えない、イメージが思い出せない等の症状を実際にみていくと、脳神経の働きを前になにやら呆然としてしまう。しかし、全ての解明を脳科学に委ねるのもおかしく、それはあくまでも一部「説明担当」してもらうに過ぎない。そして重要な点は、アーティストは、19世紀末からすでに脳の絵画―印象派―を描いていたということだ。脳科学者たちが視覚的記憶の文脈構造を研究しだしたのは、それから1世紀後だ。

森明子編 『ヨーロッパ人類学―近代再編の現場から』(新曜社 2004年)
主に非西洋を調査研究対象としてきて人類学が、1980年代からヨーロッパ自身を対象としてはじめた。その流れを日本で注目はじめたという。ヨーロッパを従来の目と違うところから把握できないか、そしてその実績をもっと実ビジネスに生きる形に応用できないかと考えていたぼくにとって、この「ヨーロッパ人類学」の趣旨は的中していた。しかしながら、この本の内容は、ぼくの狙っているポイントとは距離がある。それは待っているだけでなく自ら埋める作業をしないといけない。

エドガー・ホール『かくれた次元』(みすず書房 1976年)
「異なる文化に属する人々は、違う言語をしゃべるだけでなく、おそらくもっと重要なことには、違う感覚世界に住んでいる」という部分が、ぼくにとってのホールのポイントだと思う。そして、ユーザーの感覚や知覚とダイレクトにつながっている製品がどんどん増えていっているにも関わらず、この「眼に見えない文化の次元」にあまりに鈍感であることが、生活から経済までの大状況までの広い範囲に悪影響を与えている実態を、日本のメーカーは認識すべきだ。

ジャン・モネ 近藤健彦訳『回想録』(日本関税協会 2008年)
欧州統合に動いた仕掛け人の回想録。国際連盟設立や第二次世界大戦の舞台裏が良く分かり、最初の6カ国が欧州石炭鉄鋼共同体へと導かれる道筋がリアルに語られている。複数のグループを共生させるために必要な共通利益の可視化、それを実現させるための実践行動的プランの立て方、より優位性をもつモラルのキープの仕方。ここにはヨーロッパ人の文化のエッセンスとコラボレーションする場合のコツが記してある。

加藤周一『日本文化における時間と空間』(岩波書店 2007年)
故国を離れないと故国の全体構造は絶対見えてこない。生まれた国にそのまま住んできた人生では、決して気づかない部分がどうしてもあり、その部分が具体的に見えないと全体構造が眼前に現れてこない。これは人の才能の問題ではないだろう。もちろん、加藤周一の才能あってこそ、ここまで日本文化が見えてくるわけだが、仮に著者が殆ど日本で生きていたら、このような本は書けなかったに違いない。ヨーロッパを考える際、対比としての日本文化論として大いに活用できる。

“Magnificenza e Progetto –cinque cento anni di grandi mobili italiani a confronto” (Skira 2009)
今年の4月、ミラノの王宮で開催されたイタリア家具500年の歴史の展覧会カタログ。ぼくは展覧会をみても必ずカタログを購入するタイプではないが、この展覧会の意義に感銘をうけたぼくは、迷わず買った。時代順にセクションが分かれているのではなく、例えば、バロック様式とポストモダンの家具が同じ空間にあるのだ。3世紀前の目を通して20世紀を見る。20世紀の目で3世紀前を見る。これは歴史を再編しながらの新しい価値体系への探索だと思った。

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Category 安西洋之の36冊の本, 本を読む | Author 安西 洋之