経験を積んでいくこと、あるいは『続 羊の歌』

毎年のようにイタリア中部に8月滞在してきました。この場合、8月とは日本での旧盆を中心にした週のことですが、夜は外では長袖を羽織らないとやや寒いぐらいであり、プールも水の中に入るのに若干躊躇があったり、一度水の中に入るとプールサイドには出ずらい、そういう感じの気候です。「1-2週間前まではガンガンに照り返し、水の温度も28-9度だったよ」と家のオーナーに聞くのが習慣でした。それを聞いて、「ああ、そうなんだろうな」と思いながら、しかし、今自分が感じている夏が相対的に「夏らしくない」と判断するには至らぬだろうと考えてきました。

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今年、同じ場所にまさしく「1-2週間前」に来て、水の温度が4-5度高いことが、こんなにも行動パターンと印象を変えるものかと改めて認識しました。それも、この1-2日前の夜中にあった物凄い雷雨で一気に空気が冷たくなったその時点を境にしてやってきた「相対的にやや夏らしくない」日を迎え、「あぁ、今まで過ごしてきた日々と同じだ。そうか、盛夏じゃないってことは、こういうことだったのか」と今更ながらにして気づいたのです。ミラノの盛夏をイタリア中部のそれに頭のなかで置き換えて想像を膨らまして分かったつもりになっていた、大袈裟に言えばその自分の愚かさというか浅はかさを認識しました。

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先日、「加藤周一『羊の歌』『続 羊の歌』を読む」を書きましたが、加藤周一がパリ生活3年目の頃を思い起こした文章で、経験について以下のように記した部分があります。

その国の言葉、その国の人々との関係、その風俗習慣や季節が、私のなかに浸み込んで、積み重なり、相互に反応しながら、体質の一部をつくってゆくという過程がはじまろうとしていた。「今年の冬は寒いですね」というとき、すでに私は、去年の、または一昨年の東京のではなく、パリの冬を考えた。それは「パリの冬は寒い」という旅行者の感想とは別のものである。過去の経験が、現在の経験の意味を決める。

<中略>

冬のパリを一度訪ねて「パリの冬は寒いですね」という種類の感想がいくつあっても、もの事を正確に考えるための出発点には決してならない。出発点になりうるのは、ただ二つの前提だけである。第一、過去何十年の冬の温度の統計。それは東京で入手することができる。第二、当人にとってその体質の一部と化した冬の経験。それはその土地に暮らすことによってしか得られない。しかしその二つは、どう関係するだろうか。

以上の文章の前後には「特定の場所で生きるということは、特定の時間を択ぶということである。すべての具体的な経験はその特定の時間のなかでしかおこりようがない」というフレーズがあります。自分一人で地球上のすべての場所を経験することは不可能である限り、どこかは自分で推測して全体像を決めていかないといけません。そこにおいて必要なのは、「ある差」を知っておくことではないか、あるいは勘をもつことではないかと思います。ミラノの盛夏とイタリア中部の盛夏の差でも良いのですが、ミラノの盛夏と「秋が近くなる日」の差を、どうイタリア中部に適用させることができるか?が、より重要になってくるのではないか・・・・そんなことを思っています。

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Category 本を読む | Author 安西 洋之