ヨーロッパの息抜き

ドイツのクルマでイタリアのアウストストラーダを平均時速170-180キロで走りながら、ドイツのクルマは「概念」だと思う。それにたいして、イタリアのクルマは「大きな枠」だと感じる。どうして、そう思ったか? イタリア現代思想の本を読んでいて、日本でコンセプトといった場合、ドイツ哲学の「概念」という翻訳語に集約されがちだが、コンセプトのラテン語の語源からいって、コンセプトとは、何かを受け入れる器のようなものだとの説明があった。アウトストラーダでクルマをとばしながら、その文章を思い出したのだ。ドイツのクルマには、「クルマとはこうあるべき」という主張が、しっかりとクルマとしてより固定化されている。だから剛性を感じることに納得がいく。しかし、それがすべてではないともう一方のぼくが思う。

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その昔から、北ヨーロッパの多くの人たちがイタリアを目指してきた。それはローマだけでなく、シチリアでありトスカーナであった。南の明るい太陽を求めたのか、それともローマ以来の時間の積層を感じるためだったのか。もちろん、どちらかとは言えない。どちらでもある。旅は新しい風景との出会いである限り、あらゆる風景に古さはなく、すべては新しい・・・とも言える。

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ミラノにいて、無性に北の「きっちりとした固さ」を欲したくなる時がある。乾いた空気の冷たさ、ドイツやオーストリアの音楽の荘厳な世界で「起立!前に倣え!」と言われることが落ち着く場合がある。イタリアに高速道路をひたすらと南へと進路をとるオランダ、ベルギー、ドイツのナンバープレートが見える。「概念」の世界にいながら、やっぱり窮屈で息抜きを欲しているのかなとも思う。南の太陽だけではあるまい、彼らがほしいのは。それと同時に、ブレンナー峠を北に走りぬくイタリアナンバーが連なるのだ。

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ヨーロッパを理解するには、この二つの流れを公平に見る眼が必要なのだと思う。だが常に毎日が公平である必要はなく、ある日は北に寄り、ある日は南に寄り、結果としてそのバランスが取れればいいのだろう。願わくば、その振り子が今どちらに揺れているかについて、若干自覚的になっていることが大切なのだろう。外国人に気に入られる自国文化の見せ方とは、この振り子への観察眼によるのかもしれない。

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Category ウンブリアの夏 | Author 安西 洋之