衆議院選挙の暑い日々
Date:09/7/15
ちょっとソワソワしてきます。別に誰を応援するわけでもないのですが、衆議院選挙が近いとなると、なんとなく祝祭的な時間が展開されるように思えるから不思議なものです。どこの国も政治はめちゃくちゃと言えばそうで、何がきちっとしているのか分かりませんが、日本の国政がきちっというイメージとかけ離れていることは確かでしょう。
イタリアも頻繁に政局危機が訪れるし、あっけなく政権が変わる姿をみると、「もっと欲があっても良いのでは」と思うこともあります。最近、ベルルスコーニ首相が18歳の女性と付き合ったとか、ローマの自邸で娼婦に金を払ったとか色々と報道されていますが、真相はよく分かりません。当の18歳の女性が「彼こそは本当の恋人」と若い男性とのキスシーンを見せたかと思えば、「いや、あれは全てでっち上げだった」と彼氏が告白する始末です。九州の某知事の「少女」との関係以上に破廉恥と見られるコンテクストがありながら(ヨーロッパのほうが日本より、こういう問題に関してセンシティブであるという意味)、一方で、「政治家は自分の仕事をちゃんとやっていれば良い」と寛容なとりなしをするのもイタリア国民です。アングロサクソン系の「私生活も含めて全てはクリーンであるべき」という見方と若干差があります。

何が両国で違うかというと、イタリアでは知識階層ともいうべき人達も、広場で何時間も雑談を繰り広げている人達も、政治的な見識を放棄していないことでしょう。そのレベルを言っているのではなく、見識をもつべきとの志向性です。最近、イタリア思想史の本を読んでいたら、「イタリアの思想をリードしている哲学者は、美学からはじまる人たちが多く、彼らが、自分の領域を超え、政治、経済、社会に積極的に発言していくのが特徴」という文章がありました。彼らは都市論や建築まであらゆるフィールドを相手にしていきますが、これは逆に、ガエ・アウレンティのところで述べた、建築家の政治への関心という問題とクロスしてきます。
そして、もう一つ言えば、これはイタリアに限ったことではないのですが、「世の中を良くする」と言ったときの世の中の広さの違いです。日本である時期から「国益」という言葉がよく使われるようになりましたが、明らかに世の中とは日本列島だけを指していることが多く、その隣にある国でさえイメージのなかに入っていない。何も常に地球全体のことを頭の中に入れろといっても無理な話しですが、「向こうと隣」くらいはいつも自然な形で世の中に入る考え方をして欲しいものだと思います。あることで主導権をとる、とれない、というのは、ある広さの地域を頭のなかで想定したうえで、どう枠組みを作っていくか?です。その広さが頭のなかにない。これは大きな問題です。少なくても、頭の中は広くなくてはいけない。「〇〇市では地震の被害がすごかったようだが、XX市では無傷でよかった」というのが、XX市の市議会議員ならいざしらず、国会議員であっては困るということです。






