加藤周一『日本文化における時間と空間』を読む

自分が生まれた国のことは、長い間、国の外に出て生活してみないと分からないと思っています。国の良さや悪さという散文的な感想ではなく、国の「かたち」というべき全体構造が外からでないと見えてこないのです。外国に住んで、多くの人と何らかのことを営み、喜んだり悲しんだりしていかないと自分の生まれた国のことが分からない。それはぼくの経験では、最低、10年くらいを要するのではないかとも感じています。

よく「自分の生まれた国のことも、感覚を鈍らせないように・・・」とか言う人がいますが、こういう人は、異文化と時をともにするということがよく分かっていない人です。ある世界に住むのは、他の世界の何かを捨てることです。何も捨てずに、新しい世界の中身を取り入れることはできません。捨ててこそ、見えてくる世界の価値を認識すべきでしょう。加藤周一『日本文化における時間と空間』(岩波書店)には、長く外国に住んだがゆえに見えてきた日本ーもちろん、中国、日本、ヨーロッパ、その他の地域に対する深い造詣があるのは当然ですがーがあります。

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全体に対して部分を重視する傾向である。時間における「今」の強調は、時間の全体に対しての部分の自律性(自己完結性)の強調と考えることもできる。したがって空間における「ここ」の重視、さらにはここ=限られた空間を構造化するのに全体の型よりも部分の質に関心を集中する態度と呼応するだろう。「全体から部分へ」ではなく、「部分から全体へ」という思考過程の方向性は、「今=ここ」の文化の基本的な特徴である。

加藤周一は「始めと終わりがある時間、両端の閉じた有限の直線(線分)として表現されるような歴史的時間の表象は、ユダヤ・キリスト教的世界の特徴」とし、近代ヨーロッパの時間概念はユダヤ教的時間によるところが大きく、ギリシャ的時間ではないとしながら、日本の時間概念には「始まりと終わりがない」がないとみます。それを文学形式では連歌を例にとりあげます。

連歌の流れはあらかじめ計画されず、その場の思いつきで、主題を変え、背景を変え、情緒を変えながら、続くのである。その魅力は、作者にとっても、読者にとっても、当面の付句の意外性や機智や修辞法であり、要するに今眼の前の前句と付句との関係の面白さである。面白さは現在においても完結し、過去にも、未来にも、係わらない。連歌とは、過ぎたことは水に流し、明日は明日の風に任せて、「今=ここ」に生きる文学形式である。

これが日本の「随筆」についても言え、ヨーロッパでいう「エッセー」のように「建築的構造」をもたず、「各瞬間における生活」を描いていると指摘しています。要するに、有限的な時間概念をもつと、そこにストラクチャーを構築するという発想が生まれますが、始めと終わりがはっきりしない時間のなかでは、「建築的構造」が成立しにくいのです。これが「世界観」や「概念」の捉え方の違いにでてきます。ヨーロッパの普遍主義を相手にこういう説明があります。

異民族や異文化を支配するためには、物理的な暴力による強制とともに、支配を正当化する言説を必要とする。その言説は、被支配者に対しても説得的でなければならない。あるいは少なくても支配者の側が、説得的であり得ると考え、主張することのできるものでなければならない。そういう言説が生み出されるのは、境界の開かれた文化圏のなかからであって、閉じた地域文化のなかからではない。


この部分、特に「説得的である得ると考え」というが重要です。開かれた文化として異文化と常時接しながら説得的である言説を試みるというのは、ぼくが主張している「ユニバーサルとは言葉で納得できることだ」ということをバックアップしてくれる内容です。日本の建築の特徴では、ぼくは加藤周一の言う「建て増し」論を引用してきましたが、この本では「奥の概念」「「水平線の強調」もあります。ヨーロッパのゴシック教会で象徴される垂直ではなく、日本では水平線が強調され、五重塔でさえ、そこには垂直線を隠す、「塔の非塔化」が見られるのです。これが街となった場合、その全体を定義する明瞭な原理がないとなります。芦原義信『東京の美学ー混沌と秩序』の「カオス」に、こう意見します。

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東京の機能(安全、公衆衛生、郵便、電話等)の効率を強調し、それを「隠れた秩序」とよんだのである。そのことにも私は賛成する。しかしそこから「美学」について語るのは無理だろうと思う。水道の水をそのまま飲んで下痢をしないのは、素晴らしい機能である。しかし公衆衛生の高い水準を支える秩序は、美的秩序ではない。

この「水平線の強調」や前に述べた部分重視がアンシンメオリーの文化とどう繋がるか?そのロジックがここにあります。加藤周一が語るそれぞれの「要素」が、こうやって構築された論理になるとの一例です。

細部は全体から独立してそれ自身の形態と機能を主張する。それが非相称的美学の背景にある世界観であろう。その世界観を時間の軸に沿ってもれば「今」の強調であり、空間の面からみれば「ここ」、すなわち眼前の、私が今居る場所への集中である。時間および空間の全体を意識し、構造化しようとする立場に立てば、相称的美学が成り立つ。相称性は全体の形態の一つだからである。時空間の「今=ここ」主義を前提とすれば、それ自身として完結した部分の洗練へ向うだろう。

ここで部分主義はとても大きな構造の中で語られており、それは単に「日本人はコンセプトを作るのが苦手で品質に向う」というところで話しが終わってはいけないことに気づくはずです。そして、内面化された文化の特徴を翻せないとは、加藤周一は語っていないのです。こういう特徴を悲観的にとるのではなく、あるいはそのまま逆手に取るだけではなく、変化するための動機としても利用すべきではないかと思います。それが、この本を読んで痛切に感じるところです。

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Category 本を読む | Author 安西 洋之

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