フェルナン・ブローデル『地中海世界』を読む

歴史というのはややこしいものです。歴史家の木村尚三郎でさえ、「今の時代のことだって分からないのに、どうして過去のことが分かると思うのか?」と語っていました。同時代には目に見えること、目に見えないこと、まったく無数の事実と想いが表出され、これをひとまとめにしてこうだとは言い切れないものです。あくまでも、こういう前提で、こういう解釈が可能だと思うというところまでしかいけないでしょう。

多くの「史実」が時代によって二転三転するのは当たり前であり、その二転三転自身を含めて、時代は作られていくのでしょう。かつて、「ヨーロッパ文化部ノート」で友人が「日本の文化はヨーロッパ文化史からいえば、ゴシックだ」と語った話を書きました。世の中には類似や同類のことがさまざまにあり、この同類を違った地域のなかでも見出せば、「文化的共通点」があると言われたりするわけです。しかし、とあえて書きますが、しかし、どこでも探せば同類はある程度見つけ出すことができるのも一理で、大事なのは、どういう文脈であるいは時代のどういう層で、これら違った地域のなかに共通点を見出すかをはっきりさせることです。

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フェルナン・ブローデル『地中海世界』を読むと、明治大学の管啓次郎さんではありませんが、歴史は「擬人化」という表現がピッタリします。作家では司馬遼太郎や塩野七生であったりが、日本の幕末やヴェネツィア共和国の姿を自分の目で書いたわけです。別の人間が同じ時代を描けば違ってくるので「〇〇史観」「〇〇の歴史」と言われます。そこで「ブローデルの歴史」は強烈です。

歴史とは、われわれを取り巻き、悩ませている諸問題や好奇心ーさらには不安や苦悩ゆえに過ぎ去りし時代に絶えず問いかけをしてゆくことをおいてない。人間が住んでいる他のいかなる世界にもまして地中海世界はそのことを証明している。地中海世界は絶えず自らについて語り続け、自らを生き直すのを止めたことはなかった。それはおそらく楽しみゆえにやってきたことであろうが、それに劣らず必要に迫られてのことでもあったのだろう。かつて存在したことは今も存在することの条件である。

この「まえがき」の文章は、かなり多くを語りつくしています。ここでいう地中海世界とは地中海沿岸よりもっと広い世界を指していますが、次の文章が、「地中海世界をみる意味」を表現しているといえます。

文明の十字路に立つ地中海世界、異文化が混じりあう地中海世界はわれわれの記憶の中では、自然の景観の点でも人間的景観の点でもまとまった一つのイメージとして、すべてのものが混じりあい、そこから再び独特の統一体に構成されてゆく一つの組織体としての姿を保っている。

こう書かれて、「いや、そうじゃない」とはなかなか言えるものではありません。それだけの「実力」が地中海世界にあるということが、この世界の片隅に住んでいるぼくにも、身をもって分かります。どこの時代を切り取っても、それなりの独特のものが出てくるのですが、それらが一つのイメージのなかに包括されやすいのです。それは水平移動しても同じです。時間軸と空間軸がそれぞれの軸において、お互いに相互作用し続けている結果ではないかと思います。それも、その相互作用がものすごく強い。これは「魅力」とかいう言葉では言い切れない、何か言葉を新たに創らないといけない世界ではないかといつも考えています。

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Category 本を読む | Author 安西 洋之