ファビオ・ランベッリ『イタリア的』を読む

日本におけるヨーロッパ史のイメージでは、ルネサンス後から宗教改革あたりで突如としてイタリアは消滅し、かわってオランダ、スペイン、フランス、英国、ドイツが「すべて」を支配し、近代となれば、ヘーゲルやデカルトの考えたことを代表させればいいと思っている節があります。だから、近代の限界を、これらの思想家の批判で済ませれば事足りるとの傾向に陥るわけです。そこには、幸運というべきか、イタリアはいません。イタリアは19世紀後半の国家統一あたりから顔を出し、ムッソリーニで浮上しますが、それもヒットラーとの関連であることが多いようです。第二次大戦後も、かなり長くは映画『自転車泥棒』や『苦い米』やナポリ民謡のマカロニの国でした。以前の記事「日本のイタリア料理とものづくり」で書いたように、イタリアがライフスタイル豊かなおしゃれな国であると一般に思われはじめたのは、1980年以降です。

ファビオ・ランベッリが『イタリア的考え方』(ちくま新書)を出した1990年代後半というのは、日本人によって書かれたイタリア生活記録というべき範疇の本が続々と出版された時期で、それらがあまりに社会の全体像と底の層の把握に欠け、それが目に余るということが動機としてあったようです。そこで彼の文化人類学的な関心の持ち方がつぼにはまり、また日本とイタリアの両方を知り、かつ米国という第三の目をもつという点が、それまでのイタリアものに飽き足らない日本の読者を満足させてくれたのでしょう。

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2005 年に出版した『イタリア的ー南の魅力』(講談社)は、前述の書からの発展系ですが、イタリアについてよく言われる「食べる」「歌う」「恋する」の真相を明らかにしていきます。歌うではポップス系の歌詞の背景を解きほぐしていきます。政治もカーニバルとユートピアをキーコンセプトにみていき、イタリアの社会の根底にある悲観主義が、サッカーでの守備中心主義ーカテナッチョーを生んでいると説明します。そして一方では「南欧の思想」の大枠をさらりと解説します。

これは日本のドイツ、フランス、英国のみで近代を語ろうとしている人たちを軽くいなすようにも見えます。イギリス近代文化論が専門の山本雅男の『ヨーロッパ「近代」の終焉』(講談社)は、1992年、冷戦の終わりとともに書かれている本で、従来の近代思想の解説と批判を加えながら、20世紀前半の相対性理論や量子力学が、半世紀を経て一般の社会意識まで影響を与えているという非常に刺激的な指摘をしています。しかしながら、ドイツ、フランス、英国だけではヨーロッパ近代を語るとする「挨拶」が何もなく、一生懸命、ジェンダーなど現代的問題に突っ込みを入れるのですが、その守備範囲の狭さが、せっかくの意欲を表現しきれないという残念な結果に終わっています。ランベッリは、まさしく、その部分を救っている。だから面白いと思う人、何が面白いのかさっぱり分からないという人、これが両極端に分かれる本ではないかと思うのです。

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Category 本を読む | Author 安西 洋之