ふたたび『かくれた次元』を持ち出す

昨年、「ぼく自身の歴史を話します」というシリーズのなかで、カーデザイナーのジュージャロと一緒にイタルデザインを作って成功させた宮川秀之さんのもとで修行していたことを書きました。トスカーナの文化センターの構想を話し合う場面を、以下のように回想しました。1990年代前半のことです。

都市計画関係のネットワーク作りをスタートさせたのもこの時期。文化センターの構想を話し合う会議には、色々な人間が集まりました。心理カウンセ ラー、医者、美術史研究家、建築家、実業家・・・と多様です。テーマは「文化の違いを知り、それを受け入れるにはどうすれば良いのか?」。

そういう会議に出席しながら、ぼくは何となく分かった気になりましたが、でも眠気も感じたのも正直な感想です。その時、宮川氏に言われました。「君 にはまだ難しい話だろうな。あと10年くらいしないと分からないと思うよ」。「えっ、そんな!」と反発もしましたが、本当、その通りでした。文化の違いを ディテールとコンテクストの両方から身をもって知るには、まだまだ時間と経験が必要だったのです。

宮川さんの言葉は的確でした。文化の違いを知る絶対的な経験がぼくには不足していたのです。イタリアに来る前、日本のカーメーカーで欧州自動車メーカーと取引をする仕事をしていましたが、生活世界シーンに対する経験が十分ではなく、しかも、それは圧倒的なヴォリュームのヒストリーが必要だったのです。そして、こういうバックグランドをもち、エドワード・ホール『かくれた次元』の以下の記述を読み、さらに深く納得がいくようになりました。

長い間、体験というものは全ての人間にとって共通であり、したがって言語とか文化を飛び越えて経験に訴えるなら、他人を理解することはつねに可能であると信じられてきた。人間と体験との関係についてのこの暗黙の(そしてしばしば明言された)信念は、もし二人の人間が同じ「体験」をもっていたとすれば、その二つの中枢神経系には事実上同じデータが与えられているのだから、二つの脳は同じような記録をするのだろうという仮定に基づいていた。

プロクセミックスの研究は、この仮定の正当性について、重大な疑問を投げかけた。文化が異なる場合はなおさらである。異なる文化に属する人々は、違う言語をしゃべるだけでなく、おそらくもっと重要なことには、違う感覚世界に住んでいる。感覚情報を選択的にふるい分ける結果、あることは受け入れ、それ以外のことは漉し捨てられる。そのため、ある文化の型の感覚的スクリーンを通して受け取られた体験は、他の文化の型のスクリーンを通して受け取られた体験とはまったく違うのである。人々が作り出す建築とか都市とかいう環境は、このフィルター・スクリーニング過程の表現である。

文化人類学は日本が英米を「鬼畜米英」といっていた時代、即ち第二次世界大戦中に発達し、戦後、米国はその結果をビジネスに、英国はアカデミズムに活用するに至ります。このホールの古典も、40年以上前のものです。不思議なのは、上述のような内容が多くのビジネス世界でそれなりに定着しているにも関わらず、日本のメーカーが商品企画の前提としての「個々の文化差を越えた、あるいは横串にするユニバーサルとは何か?」に対して積極的でないことです。

民族の危機、都市の危機、そして教育の危機は、すべて互いに関連しあっている。包括的に見るならば、この三つはさらに大きな危機の異なる局面と見ることができる。その大きな危機とは、人間が文化の次元という新しい次元を発達させたことの自然的な産物である。文化の次元はその大部分がかくれていて眼に見えない。問題は、人間がいつまで彼自身の次元に意識的に眼をつぶっていられるかである。

人間と彼自身を、「日本のメーカー」と置き換えると、危機的状況のありようがよくお分かりいただけるでしょう。

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Category セミナー・講演など | Author 安西 洋之

Comment

  1. Itaru Saito 

    Facebookからお名前を拝見し、書き込ませていただきました。
    エドワード・ホールの(高・低)コンテクストをめぐる議論は、かつてNHKラジオ『やさしいビジネス英語』で馬越恵美子先生が取り上げておられ、拝聴したおぼえがあります。
    私は書籍編集者で、現在の職場では英文書共同出版の日本側コーディネートに携わっています。
    小規模ながら異文化ビジネスですので、校正の慣習、協力業者(印刷所・取次店)との関係など、あらゆる次元のディテールで文化差を感じます。
    ユニバーサル化(文化横断的な制作・流通フロー)が達成できるならば、一面ではコミュニケーション・コストの低減に繋がるでしょう。しかし、それは果たして可能か、あるいは望ましいのか、ふと悩むことがあります。
    ご指摘の論点とズレがないかとと懸念します。また若輩ゆえ、不躾な言がございましたらご海容ください。

  2. 安西洋之 

    コメント有難うございます。

    >一面ではコミュニケーション・コストの低減に繋がるでしょう。しかし、それは果たして可能か、あるいは望ましいのか

    可能か?という問いは、ある特定のブランドの特定領域のユーザーには可能(であろう)という答えがあるでしょう。アップル文化に象徴されるものです。ユーザーがメーカーに説得されることを喜ぶ関係があります。

    しかし、そういう関係が構築できることを理想とし、それを全てが求めることを基本戦略とするなら、成功率が極めて低い戦略といえるでしょう。もちろん、ユーザー側が均一的サービスを進んで享受することは少ないので、「望ましくない」ことが多々あると思います。