ミラノサローネ 2009(52) ユニバーサルと日本文化

前回(51)で書いた続きです。6月3日の日欧産業協力センターでのセミナーの社会学者の八幡さんとのディスカッションポイントです。

文化変容とは、その文化の「必要性」によっておこるのです。そして、必要とは合理性なのです。

重要な点はここです。日本の文化の自己定義で、「ディテールに強い、あるいはコンセプト作りに弱い」と言う傾向にありますが、これは必要性がなかったから弱かったと認識すべきなのです。ヨーロッパは世界観の構築に優れているとするなら、それはヨーロッパの近代の歴史が、ヨーロッパの人達をして世界観を考えざるをえない状況が続いたがために優れているとしか説明しようがないのです。今の「日本のものづくり再生」の論議を見ていると、日本文化をとても狭く見積もっています。品質だ、すり合わせだ、磨きだ・・・と。これらが強いのは、キャッチアップするのにその方法がベストだったからであって、コンセプトや世界観を作る必要性がなかったのです。

論理だ、ロジック、合理性だというと、数理哲学的な領域に入るのではないかとか恐れ勝ちなのも判断ミスを招く原因で、ここで言っているロジックというのは、日常的な生活で当然必要なレベルのロジックです。日本でも昔から「理(ことわり)」という言葉がありますが、それです。ぼくたちは言葉を使ってコミュニケーションをとっている以上、犬が吼えるように言葉をしゃべるということはありえず、そこには何らかのロジックが絡んでくる。これです。ヨーロッパはロジックを重視するというのも、そういうことであり、やや考え方のプロセスの違いがあるにせよ、基本的に通じ合えない世界ではないのです。これがユニバーサルです。

culture

言葉以外の世界を重視する、あるいはそこにより深い世界があるという考え方は、無文字社会において強いと言われ、無文字社会でなくてもアイルランドや日本の文化にその傾向をみることがあります。文化のプリミティブなレイヤーの質に上下をもつというのは変な構図であるというのがぼくの印象ですが、そのレイヤーで勝負をしよう、そこにブランドのコアをおこうというのは、考えてみれば、他の文化にとって随分と失礼な話です。いずれにせよ、長い歴史において、「分けが分からない」というのは、それ自体でブランドになることがある -例えば、ヒッピー時代のインド哲学 - と思うのですが、ヨーロッパにおける日本の文化も、それに似たところがないとは言えません。それに惹かれる層や世代があるのは事実ですが、マスプロダクションのメインストリームにはなりえません。マニアックなニッチな世界で良いのなら別ですが、それでもまず、メインストリームがあってのニッチです。この地図がちゃんと認識されていないといけません。ぼくが『ヨーロッパの目 日本の目ー文化のリアリティを読み解く』でも書いた、ハイカルチャーとローカルチャーの区別が残るヨーロッパ文化の特徴は、こういう側面からも効いてきます。

急いで話を最後にもっていくと、ビジネス活動におけるユニバーサルとは、もっと柔軟性の高いもので、文化の固有性から離れたものです。即ち合理性に基づいていることを最優先すべきで、その点において、日本人デザイナーや企業が、自分の道を狭める必要は全くないのです。それにプラスして、日本的テイストが付加すればより売れる商品の場合、 -イケアがスウェーデン家具と文化を使っているように - それをコンセプトの上に搭載すればいいのです。パヒュームのためのフランス文化もそうです。

今日、これからミラノを発ちます。金曜日に六本木でトークショーがあり、そこでも、これに近い話をしようと思っています。

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Category ミラノサローネ2009 | Author 安西 洋之