ミラノサローネ 2009(49) アーティストの目

このシリーズで色々と辛らつな意見も書いていますが、誤解なきよう目的を再度書いておきます。ミラノサローネを通して理解するヨーロッパ文化動向が狙いですが、それはヨーロッパ人とビジネスをする、あるいはヨーロッパ市場を攻略する、そのためのヨーロッパ理解です。ヨーロッパを着飾り気取るための文化理解ではありません。その点、ご注意を!

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昨日、「ミラノサローネ2008」で作品を紹介したコンテンポラリーアートの廣瀬智央さんと会ってサローネについて話し合ったのですが、アーティストの目からみたサローネの感想の一例としてご紹介しておきます。

サローネを見ると何か物足りないものがいつも残るんです。これは僕なりの感想なので一般的に当てはまらないかかもしれませんが。特にデザイン製品そのものを見せるような展示ではなく、フオーリ・サローネなどで展開されている各企業なり、作家が表現しているデザインイメージとして提示している展示の話しなんですけど。インスタレーションで表現している空間や作品が、何かデコレーション的な美しさにだけで終わってしまっているような感じで、その先のメッセージとかがいつも伝わってこないんです。「美しい」作品以上に、「美し過ぎる」作品が多いでしょう。それに、アートですでに表現されているような作品の焼き直しも多いでしょう。デザインとして割り切って見てしまえば、それはそれで良いのかもしれませんが、アート作品として見ようすると、どうにも何か物足りないものを感じてしまうのです。

その物足りなさは何か?どのような見方をするかで変わますが、職業上どうしても展示作品をみると、表現している人のメッセージなり精神性を読もうとしてしまうのです。やはり、企業の依頼やその都度の展示の一過性でインスタレーションが制作されているが故に、作家のメッセージ性とかがどうしても弱くなってしまうのだと思います。アートの場合、一生かけて人間の悩みとか、生きる上での問題とか、逃れられない性とか、自身のリアルな世界をとおして、どうしようもないモチベーションから作品が創られて行くゆえに、作家の精神性が反映されざるをえないんです。自身をしっかりと見つめて行くことでしか表現できないから、どうしても作品の背後にある精神性が見えざるをえないのだと思います。アート作品は目の前にある作品そのものの他に、その背後にある精神性を観客がリアルに感じた時に感動するのだと思います。生きていくうえで我々が抱えている問題は、もっとドロドロした欲とか人に言えないような醜さで、そうした世界が「美し過ぎる」訳がなく、ほんとうは人は人間の持っている醜い部分がもっと見たいのだと思います。

そう考えると、デザイナーが表現する作品の精神性やメッセージ性は、デザインされた作品そのものに反映されてくるのであって、デザインされた作品を見せるためにアレンジされた一過性のインスタレーションの方には反映されにくいのだと思います。ですので、サローネでは、中途半端のインスタレーションを見るよりも、単純にデザイン作品そのモノを見た時の方が、素直に感動したりします。

もしかしたら、デザイン作品のためのインスタレーションにそのような見方自体が不要なのかも知れませんけど。デザインとアートのどちらが優位とか言う話しではなく、そうした作品が生まれる迄の精神性がいかに作品に反映されているかということで、視覚的に同じように見えるような作品でも、伝わるメッセージ性の強度が変わってくるのだと思います。それゆえにフオーリ・サローネなどで展開されているインスタレーションがなにか中途半端に感じて、物足りなく感じるのだと思います。もしかしたら、デザイナーの方からみても中途半端に感じるのかもしれませんけどね。

西洋では、ハイアートとローアートの世界か明確に分かれていてますが、ここ4~5年ぐらいから、デザインや建築、アートの境界がくずれて、クリエイティヴの新しい可能性を探る展覧会が世界各地で行われています。逆に日本ではハイアートとローアートの世界がゴチャゴチャになって、それが独自のオリジナルな文化を形成していて、そこに日本のオリジナルがあると西洋の人は見ています。それにしてもどのような作品であろうとも、作品の背後にある作家のメッセージ性は、常にとわれていると思います。デザインは、人が生活する上でのコミュニケーションとしての役割を持っている以上、何らかのメッセージ性は作品の強度につながるのだと思います。

廣瀬さんは、「キャノンのインスタレーションでも、人が寄るとクラゲが集まるだけでなく、あそこで実際にクラゲを手に取れるようなところまでいけば、違うんだけどな・・・」と語ります。ぼくも彼のインスタレーションに対する不満を共有していますが、最近のセンサー技術が逆に不足感をより作っていることもあると思います。視覚以外の感覚をどう感知してより重層的なインターフェースを形作るかがテーマになっていますが、まだ熟成したレベルには達していません。結局、「ああ、あのセンサーがぼくのほんの一部を見たのね」という感覚がどうしても残ってしまう。だったら、視覚レベルでもっと刺激的な見せ方ができるのではないか?という疑問を抱かせてしまう。それが不足感や欲求不満を促進してしまうのではないかとも思います。

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レクサスのインスタレーションですけど、いつも残念に思うんです。サローネに出品している日本の多くの企業は、うち向け、つまり海外展開のためのプレゼンテーションではなく、日本国内にむけて、我が社はサローネに出品してデザインを重視した展開をしてますよ、みたいな感じの所が多いのだと思いますが、レクサスは、むしろ海外展開を真剣に展開している訳で、そのためのサローネでのインスタレーションですよね。もう少し、うまく見せられないかな~とやきもきしてしまいます。

ハイエンドユーザーの車として、レクサス良い車なんですけどね。アメリカではすごい人気でステータスですけど、残念なことにイタリアではあまり知られていないような気がします。実際に僕のイタリア人の友人は、レクサスを知らない人のパーゼンテージが多いし、サローネのインスタレーションを見ても何がいいたいのか分からないという意見が多くありましすね。もしかしたら、ブランド力をあげた上で、あのようなイメージインスタレーションは有効かもしれないけど、レクサスを知らない人にあのようなインスタレーションをみせても車としてのレクサスのそのモノの存在さえ、うまく伝わっていないのではないかという気がしてなりません。

なので、僕の解釈では、レクサスの哲学イメージからブランド自体をしっかりとアピールし、高級イメージを展開するための、あのようなインスタレーションをしているのだと思いますが、その方法が何か中途半端になっている気するんです。いつも高級イメージを展開するためのインスタレーションの美しさは充分にありますが、美しいだけで終わってしまい、レクサスの車のもつメッセージやメッセージ性をうまくに伝えられていないのが残念です。

たぶん、レクサスの哲学が難しすぎて分かりにくいこともあり、それが中途半端な方向にいっているのかもしれません。レクサスの哲学を読んで、日本人である僕もよく分かりにくいので、こちらの人がレクサスの哲学を読んでももっと分からないと思います。アップルがあのシンプルで分かりやすいコンセプトやプレゼンテーションで世界を圧巻している様とは非常に対照的ですよね。もしかしたら、レクサスには、インスタレーションの展開云々の話し以前に、アップル的な分かりやすさが意外に必要なのではないかと思います。

要するにリアルな文脈を踏まえた、どれだけのレクサス体験があるかを十分に考慮したインスタレーションとは思えないというわけです。デザインのコンセプトを伝え、レクサスのブランドを定着させるという意図が感じられない。ただ、その前に、レクサスのコンセプト自身がもう一度練られるべきではないかという点は、大切なことだと思います。

そういえば、ちょっと話がずれますが、サローネでMolteni & Co. のスタンドでみた収納家具に対する見学者の熱心さは印象的でした。とくに扉の開閉システムを自らチェックする人達、それを色々なアングルから撮影する人達、十分にコミュニケーションできているなあと感心したシーンです。

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Category ミラノサローネ2009 | Author 安西 洋之