ミラノサローネ 2009(37) サローネの見方ー4

→ 文化文脈は展覧会の入り口で掴め!

デザイナーたちが何を考えているか? これを知ることが最初です。作品をみて直感で分かる人がいれば、それは超能力者に近いでしょう。夫婦でさえ毎晩枕を並べているのにお互いよく分からないというのに、どうして何も知らない人間の考えていることが分かるのか? 極論すれば、こういうことです。作品をみれば何となく分かった気になりますが、それがデザイナーの意図と全く違っていれば? それはデザイナーの表現方法に甘さがあるのか、見る側の理解力不足なのか、どちらかでしょう。しかし、デザイナーの表現方法に問題があったとしても、ここでデザイナーの考える方向を知っていれば、他の表現方法に成功している作品をみたとき、「なるほど、こういう考えをしている人が今は多いんだね、それにしても、このデザイナーの表現は的確なんだな」ということがよりよく分かるのです。

デザイナーで直接話すことができれば一番早いです。しかし、いつもデザイナーがそこにいるわけではありません。もし、その会場の入り口に「私はこう考えている」という時代認識あるいは社会認識が書いてあれば、少なくても、それを見逃す手はありませ。コンセプトが書いてあれば、それを読むべきです。読まないより読んだほうが良いに決まってます。しょっちゅう会い、酒を飲みながらでもよく話し合う、そういう関係が長く続いている友人の作品に出会う。また、大好きなデザイナーの作品を時と共に生きている。その人達の作品がより面白いと思えるのは、作品のバックグランド、即ちデザイナーのことを良く知っているからでしょう。「ああ、あいつ、こういったな」「今度は、こう攻めたか」と思えるのは、デザイナーが社会にどう自分を見せたいか(どういうアウトプットを狙っているか)知っているからです。あなたが知らない見知らぬポーランドのデザイナーも、本当は、そういう風に興味をもって見て欲しいのです。

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→ 暇そうなデザイナーと積極的に話せ!

でも、限られた時間の制約のなかで、そんな丁寧な見方は全てに対してなかなかできません。また、もちろん、自分なりの分かり方というのがあります。必ずしもデザイナーに自分を合わせる必要はない。が、せっかく文化のリアリティを把握するよい機会を前にしてそれをフイにするのは、あまりに非効率で不経済です。もし、どうしても入り口のパネルを読みきれないのであれば、そこに人が集まって読んでいることに気づき、そのように読んでいない自分は、あの人達よりここで獲得する情報量が圧倒的に少ないという自覚をもつことです。大きな読み違いをする可能性があることを自覚していることと、全くそういう自覚のないケースでは、サローネ後の感想に慎重さという意味で大きな差異が出るはずです。

昨年、フオーリサローネのイベントが500近くあったといいます。それを駆け足でなるべく沢山見るのではなく、ある程度の緩急をつけて見る。それはどういうことかというと、大勢の人達の見るトルトーナあたりで、人ごみをかけ分けながら見る一方で、ぼくが昨日書いたような人の少ない静かな展覧会をみつけ、人と話し、一人で考える、そういう時間を必ず確保することです。暇そうなデザイナーが考えていることが方向として間違っているのではなく、たまたま多くの人にみてもらう場所を確保するチャンスが得られなかったか、そういうチャンスをものにする積極性に欠けているのか、あるいは表現が苦手なのか、何らかの理由で大勢のなかにいないに過ぎない、ということが多いのです。「何を考えているか」という情報収集の相手としては十分です。

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Category ミラノサローネ2009 | Author 安西 洋之