ミラノサローネ 2009(25)-象の足を描く
Date:09/3/22
ヨーロッパ人に地図を描いてもらうと、A4一枚の紙におさまりきれず、紙の端で道路が途中で終わり、「もう、一枚ない?」と言われることが珍しくありません。鳥瞰的に経路を把握しておらず、自分の目の高さで自らが移動していく傾向にあるからであるとされます。このテーマを書いた本が、以前、これを男女差として描き日本でもベストセラーになったことがあります。ぼくは、この問題を日本人と欧州人の差として拙著『ヨーロッパの目 日本の目』で取り上げました。

さて、ミラノの街のあちこちにある落書きもアートであるとする人も一部にいます。確かにアートと思える落書きもなかにはありますが、多くは単なる落書きです。今日、その落書きを公園で眺めていて、ふと思うことがありました。例えば、以下の絵です。

これはマンガの影響でしょう。かなりアップです。ぼくが、ここで気づいたのは、頭の一部が欠けていることです。どうしてこの塀の高さにおさまるように顔と頭の比率を考えなかったのだろう、と。これは冒頭で書いた問題とかかわりがあるのかな、と。そう考えました。それでこの塀を眺めながら、友人のアーティストに電話してみました。「こういうの、どう思う?」と。すると、こういう答えが返ってきました。「例えば、象を小さい子供に描かせると、像の足だけを描くことがあるんですね。象は大きすぎて、こんな小さい紙に入りきれないって。その点、大人は紙のなかにおさまるような描き方をしますよね。落書きの場合、スプレーを使うと、描きたいところからはじめるということも多いかもしれないけど・・・・」

子供の目にとって、象は足だけでもう十分なほどに巨大である、その印象を紙に描くというのは実に素直です。なるほど、わざわざ無理して全体像を一つのスペースに収めきろうとする必要は何もないか、と改めて思いました。逆に、描ききれなかった頭の一部に作者の思いが残ることもあるかもしれません。最近、「一人で分かるヨーロッパ文化」を考えていると書きましたが、今日のエピソードに喩えれば、頭の一部が欠けることを恐れてはいけないということなのかもしれません。







はじめまして。
昨日このサイトを知りました。
興味深い内容で、勉強になります。
今日の記事には、なるほどと思ったことがあります。
ヨーロッパの文化ではA4一枚に囚われず、対象となるもの(本質?)から考える。
そして日本の文化はどうかというと、A4を渡されたら、A4に収まるものだけを考える。
これって新しいものを生み出せるか生み出せないかの根本的な原因かもしれないですね。
日本人は手元にある範疇でしか思考できないってことですから。
だけど、それは逆に手元にあるもので最高のものを生み出せる可能性があるってことにも繋がりそうですね。
日本人の得意な改善ですね。
今、新しいものを作るぞって機運があると思いますが、日本人にとってそれはあまり必要ないのかもしれません。
日本人の文化形成事態が、新しいものを生み出すのではなく、外から取り入れることで発達してきたようですから。
そこらへんをもっと解るよう勉強していきたいです。
翔さん
コメントありがとうございます。
今日、「以下、ヨーロッパ文化部ノート」でクラシック音楽とそのプラットフォームについて話が発展しましたが、ここで「普遍的な原理構築の重要性は、日本人には、まだ良く理解されてはいないように感じます。理念的な原理が現実を造り、また変えると言う事の重要性!」という指摘があります。
http://european-culture-note.blogspot.com/2009/03/blog-post_23.html
A4を全ての活躍の地として認識するかどうか、いや、A4から出て活躍したいという気持ちを自身をどう処理するのか、これがもっと話し合われないといけないですね。
プラットフォーム、奥深いです。
「ヨーロッパ文化部ノート」や「さまざまなデザイン」を読み返してきました。
ヨーロッパ諸国との文化比較で日本が何者かが少しずつですが、分ります。
プラットフォームって入れ子だと思いました。
簡単にですが
宇宙>地球>国(土地や文化)>街>人(生命としての能力)>思考(経済なども含む)>商品(物)>[宇宙に戻る?](物が環境を造る)
という具合でしょうか。
この区切りすべてプラットフォームと呼べます。
「人」というプラットフォームがあって初めて「思考」と言うプラットフォームが構築されたわけですね。
この構造に気がつけばいかに上層のプラットフォームというものが下層のプラットフォームを限定するのか、または飛躍させ得るのかが分ります。
「物」を生み出すことで人はまた上層にあるプラットフォームを変更(発展から破壊まで)させることができるようになったわけですよね。
今の人の能力で言えば国まででしょうか?
「物」がプラットフォームを満たすと、街とか環境となり、それがさらに上層の文化へと反映されていく。
どういうわけか、たぶん産業革命からでしょうか、そこで人はさらに「物」のなかに新たなプラットフォームを生み出したわけですね。
…街>人>物>人>…
↓
物>…>物>宇宙…
という最初は人が作った「物」ですが、今度は「物」が独自に世界を人を造り始めたということになると思いました。
日本の歴史から日本人は上層のプラットフォームを自ら構築するというよりも、上層のプラットフォームを畏れ尊んできた習慣があるように思います。
昔のヨーロッパのように自然を支配するという意志がない(むしろ、お願いする《仏教的発想》)ところから、はじまり上層のプラットフォームを構築する術を知らず、適応することに長けてきたんだと思いました。
基本姿勢が「諸行無常」だったからでしょうか。
グローバル化が進み、国という物理的境界が薄れ、国が地球というプラットフォームに統一され始めた今、プラットフォームを生み出せない日本が経済的に非常に不利なのは理解できます。
今を生きるからにはなんとかしなければいけませんね!
いやー、プラットフォーム興味深いです。
グランドデザインという言い方もありますね。
勉強不足で至らない点も多いと思います。
「お前はバカか」とのご指摘はお気軽にどうぞ。
翔さん
なるほど、翔さんなりのプラットフォームのレベルを造ったわけですね。下部構造と上部構造論のようでいて、そうではないところがいいです。日本人が上層プラットフォームを畏れたかどうかは分かりませんが、おっしゃるように、多分に地域を越えた(海を越えた向こう)が想像しにくいがゆえに、複数のプラットフォームのすり合わせの仕方が上手くないという「伝統」があるかもしれません。
最初からユニバーサルを狙わず、「もう少し地域限定のプラットフォームで勝負すれば勝てるかもね。なんせ、今、アジアは経済的に伸び盛りという噂だし・・・」というのが、アジア文化圏構想の底流にあるような気はしますね。しかし、「それで市場は足りるのか?」という問いが一方にありますから、それだけでは心細いというのが現状でしょう。